禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)

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臨済禅と鎌倉五山

日本のの草分けの一つである臨済禅とそれらの寺院が多く残る鎌倉での寺院について紹介(鎌倉五山)する。

禅は中国から奈良時代には伝わっている。しかしながらその後途絶えて、再び中国の禅を日本にもたらしたのは栄西禅師となる。当時中国は北方のモンゴル帝国に侵されつつあった南宋の時代で、臨済(りんざい)・法眼(ほうげん)・潙仰(いぎょう)・雲門(うんもん)・曹洞(そうとう)の5宗の禅が活動していた。

栄西はそのうち最も盛んであった臨済宗を日本に伝え、福井永平寺を開いた道元禅師は曹洞宗を受け継いで行った。

臨済宗は、唐の宗祖臨済義玄(-867年)に始まる。臨済は、中国の禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半-6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓法林寺慧能(えのう)の弟子である南嶽懐譲(なんがくえじょう)から馬祖道一(ばそどういつ)、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)、黄檗希運(おうばくきうん)と続く法系を継いだ。

五代の混乱した時代は、宗勢が振るわなかったが、北宋時代に黄龍慧南楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。南宋の時代となると楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 – 1135年)の弟子の大慧宗杲が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

これに対して、臨済宗は中国に渡った栄西が黄竜派の教えを受けて日本に伝えた。特徴としては、同じ禅宗である曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広がったのに対して、臨済宗は、鎌倉幕府室町幕府などの時の武家政権と結びつきが強かったことになる。

禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。詳細は”禅とアート“を参照のこと。

師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。

公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答となる。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。

公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。

修行の初期段階に与えられる公案の例としては以下のものがある。

狗子仏性(くしぶっしょう)「犬に仏性はありますか?」「無(む)」この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。

隻手の声(せきしゅのこえ)-「片手の拍手の音」弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。

これらの禅の思想については”大乗仏教と涅槃経と禅の教え“も参照のこと。

臨済禅を日本にもたらした栄西が源頼家の命により開いた最初の禅寺(建仁寺)は建仁2年(1202年)に京都に造られた。ただし当時は奈良・京都仏教の影響は強く、建仁寺も純粋な禅寺ではなく、禅・天台真言の3宗兼学の形態をとっていたらしい。鎌倉に禅宗の専門寺院ができたのはそれより50年ほど後になり、武家政権の基盤が安定してきた鎌倉幕府5代執権北条時頼の時代となる。

公家政権を圧倒し、鎌倉に新しい幕府を開いた武士階級の政権基盤が安定してきた時、これまでの奈良/京都を中心とした文化や伝統とは異なる独自の精神性が必要となり、臨済禅の厳しい修行を基本にした人間の生き方と実践を解く教えが、戦乱に明け暮れ、自力更生強いられてきた武士階級の精神に最も合致して求められたものらしい。

鎌倉に開かれた最初の禅寺は、中国から渡来した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)によって開山された建長寺で、建長5年(1253年)に創建される。蘭渓道隆は大覚禅師とも呼ばれ、来日当時は大船北鎌倉の中間(大船駅からバスで3分)にある常楽寺(下写真)に滞在していたとのこと

蘭渓道隆で伝わるエピソードの一つに建長寺が発症と言われる「けんちん汁」がある。けんちん汁は大根・にんじん・ゴボウ・里芋・蒟蒻・豆腐を胡麻油で炒め、出汁を加えて醤油で味付けしたすまし汁のことで

これは、道隆の弟子が豆腐を床に落してグチャグチャにしてしまって困っていると、道隆が壊れた豆腐と野菜の皮やヘタを無駄にしないようにと作った料理が始まりで、建長寺汁がなまって→けんちん汁になったものであるとのこと。ちなみに中国読みでは、”ケンチャンスー”と発音するらしい。

建長寺は、北鎌倉駅(成田エクスプレスの終着駅である大船から横須賀線に乗り換えて一駅)から鎌倉方向に徒歩15分ほどの場所に位置し、総門から入ると建物が直線状に並んでいる配置となっている。また、半僧坊から裏手となる山に登っていくと覚園寺瑞泉寺へと向かう「天園ハイキングコース」に抜ける。(下図)

第二位は円覚寺で、元寇(1281年)の時代に南宋から来日(1279年)した無学祖元が開山したもので、時の執権北条時宗により弘安5年(1282年)に創建されたものとなる。無学祖元は言葉として有名なのは「驀直去(まくじきこ)」で、「驀」は、驀地(まっしぐら)という意味で、「直」は、素直の直、「去」は突き抜けると意味となり、「驀直去」は「まっしぐらに一直線に突き抜けろ」という意味となる。

この言葉を受けて「大事到来、いかにしてこれを避くべくや」、大事がきたら、どうすればこの大事を避けられるかという問いにたいするその答えが「夏炉冬扇(カロトウセン)」という答えの公案が生まれている。「夏炉冬扇」は夏の囲炉裏と冬の扇という意味であり、暑いときには囲炉裏にあたっておけ、寒いときには扇を使えという答えとなる。

これは暑いのだから暑さの中に浸り切れ、寒いなら寒さの中に浸り切ってしまえということです。つまり、苦しかったら苦しみの中に浸り切って、それを突き抜けろと言うものとなる。これは、悩みや苦しみから逃れようとして、それに捉えられた自分の過去や未来の不幸を悔やむよりも、その中に浸ること今の問題に集中し突き抜けろとも捉えることができる。

円覚寺は北鎌倉駅から降りてすぐの場所にあり、妙香池みょうこうち)と呼ばれる美しい庭を持つ。

第三位は寿福寺で、明庵栄西により開山されたもので、北条政子が創建したものとなる。場所は北鎌倉駅から20分ほど歩いたところにあるが、境内は参拝禁止となっている。

第四位は浄智寺で、南州宏海により開山された寺で、北鎌倉駅から鎌倉方向に歩き、建長寺とは反対側の山の中にある。

第五位は浄妙寺で、元々は平安時代に創建され「極楽寺」と呼ばれた密教系の寺院を、建長寺を開いた蘭渓道隆の弟子である月峯了然が入寺し臨済宗に改宗、寺名を浄妙寺と改めたものとなる。ちなみに、極楽寺は鎌倉の海側にある地名にもなっておりそちらに「極楽寺」と呼ばれる寺がいくつかある。

浄妙寺は、これまでの四山と異なり鶴岡八幡宮を挟んで反対側に位置し、建長寺のところで述べた天園ハイキングコースの出口側にある。山間で美しい庭が有名な寺となる。

コメント

  1. […] 臨済禅師は臨済宗と鎌倉五山でも述べたように臨済宗の開祖となる。禅宗の肖像画はどれも同じように顰めっ面で描かれているものが多いが、臨済禅師の肖像画も同様に何かに怒っているような表情で描かれている。臨済禅師の禅風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈なものであり、唐の時代の禅僧である徳山宣鑑の「徳山の棒」とならんで「臨済の喝」と呼ばれ、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられたらしく。それが絵にも表されているといったところだろうか […]

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  3. […] 湖西の道のスタートはまずは、京都の東側(以前紹介した鎌倉五山に対する京都五山の別格である南禅寺のある辺り)から大津方面に向かうところから始まる。 […]

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  6. […] 梼原は、そのような土佐を抜け出す小天地となり、土佐人が追い求める自由への入り口でもあったらしい。また、中世の梼原は、文化的土壌もしっかりしていたらしく、例えば、”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“で述べた鎌倉五山の僧侶たちは、中国にも往来し当時の最先端の文化人であったが、そのような五山文学の中でも双璧と言われる義堂(義堂周信)と絶海(絶海中津)の2人とも、梼原の津和氏の出身であり、彼らが書いた詩は、当時の教養人にふかく敬せられていたらしい。 […]

  7. […] “禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“に述べている鎌倉仏教の登場で、仏教の教え自体は、それまでの貴族たちだけのものから、武士、庶民へと広まっていった。しかし新仏 […]

  8. […] 以前”ゆらぎの美 -日本画と和様の書について“で述べたように、鎌倉時代以前の日本の絵画は「大和絵」と呼ばれる日本の風物や物語を主題としたものであったのに対して、鎌倉時代以降”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“でも述べているように新興宗教(禅宗)が中国より輸入され、禅宗は”禅とアート“でも述べているように絵画や書などのアートと結びつき、水墨画とよばれる墨の濃淡で表現する絵画が輸入されてきた。 […]

  9. […] 「荘子」は、一切をあるがまま受け入れるところに真の自由が存在するという思想を、多くの寓話を用いながら説いている。「心はいかにして自由になれるのか」 その思想は、のちの中国仏教、すなわち禅の形成に大きな影響を与えた(中国から日本への禅の伝来は”臨済禅と鎌倉五山“等に述べている)。寓話を使っていることからも分かるように、「荘子」は思想書でありながら非常に小説的なものとなる。実は「小説」という言葉の起源も「荘子」にあって、外物編の「小説を飾りて以て(もって)県令をもと干む(もとむ)」という一節がそれになる。「つまらない論説をもっともらしく飾り立てて、それによって県令の職を求める」という意味で、そのような輩は大きな栄達には縁がないと言っている。あまり良い意味ではないが、これが小説という子どはの最古の用例となる。 […]

  10. […] 京都における禅寺では、”臨済禅と鎌倉五山“に対応するものとして室町時代に作られた京都五山“第一位を建長寺(鎌倉)と南禅寺(京都)、第二位を円覚寺(鎌倉)と天龍寺(京都)、第三位を寿福寺(鎌倉)、第四位を建仁寺(京都)、第五位を東福寺(京都)とし、準五山に浄智寺(鎌倉)”がある。 […]

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