街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第4巻 洛北街道

前回河内のみちについて述べた。今回は洛北諸道として京都の北部の山間部の旅となる。
洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と

まずはスタスタ坊主から。スタスタ坊主は文字通り複数人数でスタスタ歩いている僧侶で別名願人坊と呼ばれる。

上図のように、上半身裸で、頭をハチマキで締め上げ、腰にしめなわをぶら下げてているという異様ないでたちであったらしい。右手に錫杖をつき、左手に扇子をひろげて、普段はスタスタと歩いているが、急に「はだか代参代参」と叫んでどっと駆け出して、人々に代わって お参りしたり寒中行をしたりするとと言う稼業だったらしい。当初は京都周辺だけを活動の場所としていたものが、時代が経つにつれ、東海道を下り 江戸へと勢力をのばしてきたとのこと。

江戸時代の名奉行として有名な大岡越前が、このスタスタ坊主を怪しみ、元締めを調べたところ、「われは山城の北を鎮めまする鞍馬寺大蔵院から参ったものでござりまする」との答えだったので、京都の鞍馬寺に問い合わせると「あの願人坊主というのは、源義経公がお若い頃に当山で兵法をご修行遊ばれていたみぎり、それにくっついていた連中の後の姿でございます」との返事があったとのこと。

司馬遼太郎にとっては鞍馬寺の大きな石段の下に走っている鞍馬街道を考えると、この逸話とスタスタ坊主が思い出されるらしい。

この章では、スタスタ坊主の話から、次に山伏の話へと続いていく。

山伏は、正確に言うとそうではなく在家の修験者で、京都の北部の山は山伏の行場として知られており、鎌倉室町幕府の時代には、彼らが山の中にうようよいたようで、前回の河内のみちでも紹介した楠木正成は、それら山伏組織を握っていたとも言われる。また、戦国期に現れた忍者も、宗教性を失った山伏見であるとも言われている。

江戸時代になると、山伏の多くは里に定着し、自分の行を使って里人のために加持祈祷を理つつ生活しており、スタスタ坊主のように貧困階級ではなく、もう少し尊敬された存在だったが、明治維新後に徐々にいなくなった。

鞍馬寺の周りの村はもともと、寺の僧兵から始まっているとのこと。

僧兵は、法師武者とも呼ばれ、厳密には僧ではない。戒をうけた僧のような僧位僧階を持たず、ふつうはお経も読めず、まして仏学に通じているわけでもないが、姿は僧形をとっている。

この戦士団は、荘園をたくさんもっている裕福な寺に発生し(源平の争いの時代に貴族階級の終焉から武士が生まれたように)、普段は寺の荘園の管理や雑用をおこなっていたらしい。織田信長が出て、比叡山延暦寺を焼き討ちし山中の僧侶をことごとく殺すという挙に出たあたりから、大規模な寺院での僧兵は徐々にいなくなっていったが、鞍馬寺は比較的おとなしなったため、時代がたっても生き延びて山村を作っていったとのこと。

それらの名残は現代でも、鞍馬の火祭りとして残されているらしい。

山伏と同様に加持祈祷を行う宗教としては、前回述べた真言宗での密教がある。実際に真言宗の僧の中には雨乞いなどの祈祷を行う人もいるらしい。

鞍馬寺の話が続いた後で、次に向かったのは大悲山峰定寺となる。

峰定寺は鳥羽天皇により勅建されたものらしい。鳥羽天皇は平安末期の天皇で、贅沢とわがままを満喫するため、天皇の位を早々にゆずり、何の束縛も受けない上皇として27年という長い間、寺を作ったり、多くの後宮を侍らしたりしていたとのこと。それらのおかげで、鳥羽天皇亡き後、宮廷内の争いが顕著化して、平家が台頭する保元の乱につながっていったらしい。

峰定寺を離れたあとは、山国陵を訪れている。

ここは、14世紀(鎌倉末期から室町時代)の天皇が二系統存在した時代の北朝(武家方に擁された側)の光厳天皇後花園天皇の御陵となる。この南北朝時代は司馬遼太郎によるとまるっきりの欲得の時代で、その後の武士の時代にあった美の基準(人間はどう行動すれば美しいか)が時代感覚的に薄かったと述べられている。

この欲得だけの世界に対して、遙か後世である徳川時代水戸黄門として有名な水戸光圀が編纂した大日本史編纂でその時代の中国の思想である宋学(特に朱子学)のイデオロギーを照射して、正と邪に分けてしまい、それが尊王攘夷という、王家がいかに衰弱していても尊ぶべきであり、実力で国家や天下を支配している覇者とか夷(異民族の実力者)としいものは賤むべきである、という幕末の思想へと繋がっていく。

この朱子学の考え方が太平洋戦争の終結までは大きく影響を与えて、前述したように楠木正成が利害を超えて活動するロビンフッドのような存在となり、足利尊氏に代表される武家勢力はことごとく賊となっていった。ところが明治天皇は系統的には武士方である北朝(南朝は最終的には衰退してなくなっている)であり、南朝が正統であるというイデオロギーで成立した明治維新の成り立ちと矛盾するという虚構を、日本の歴史ははらんでいる。

という歴史解釈談を述べながら御経坂峠を超えて洛北諸道の旅は終わる

次回南伊予西土佐の道について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と […]

  2. […] 「街道をゆく」第十四巻より、前回は洛北諸道として京都の北部の山間部の旅について述べた。今回は南伊予・西土佐の道について述べる。 […]

  3. […] 街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と […]

  4. […] 次回は洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵について述べる。 […]

  5. […] 進み、興福寺の宗徒が春日神木を振りかざす強訴を始めたり、”街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と“で述べているような僧兵団を形成して台頭してきた武士集団 […]

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