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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
北海道の諸道
今回の旅は北海道となる。スタートは函館、松前町から始まり、最終的に陸別町のかなり広範囲に渡る。これまでの街道をゆくと異なるところは、前半の函館・松前あたりまでは歴史にまつわる話で進んでいたが、後半になると純粋な紀行的な話(北海道の歴史は奈良・京都などの阪神地方に比べると浅い)となる。
旅は、函館行きの飛行機の中でオロフレ峠の原生林の紅葉についての会話を聞くことから始まる。
北海道は、ロシアとの関わりが深い。司馬遼太郎が函館に行った1970年代には、日露戦争時代にウラジオストック艦隊が函館の目の前を走っていったのを実際に見た人がいたそうである。
当時の日本の最大の巡洋艦が1万トンに満たないのに対して、上記の船(船名モスクワ)は1万2千トン以上あり、当時の日本人に対する威嚇効果としてはかなりのものがあったらしい。そのような圧倒的な戦力差があったにも関わらず、前回述べた松山出身の秋山真之(司馬遼太郎の小説である坂の上の雲の主人公の一人でもある)が参謀を務める日本艦隊に敗れるというどんでん返しが起きる。ちなみに上記の船は戦争後まで沈まずに残ったらしい。
函館近辺は、これも以前陸奥のみちで述べた南部氏が1200年頃から度々征服事業をやっていたり、その後は北海道の最南端付近にある松前城を作った松前氏が1450年頃に侵略している。その頃までは道南一帯に本州から武装集団がいくつも蟠踞していて、それらに対してアイヌが立ち上がり、東部の族長のコシャマインが統率した大規模な闘争があったらしい。
このコシャマインと戦い、勝利しさらに道南での勢力を拡大したのが松前城を構築した松前氏となる。
道南では、函館が地形的にも稀に見る良港であったが、背後地が広闊であり、守りに不適切であるという理由から、松前氏は明治維新までの500年間、北海道の先端、本州に最も近い狭い場所である松前町に篭り続けたとのこと。
次に話題は小説「菜の花の沖」の主人公である高田屋嘉兵衛に移る。
高田屋嘉兵衛は淡路島出身の江戸時代後期の廻船業者、海商であり、函館を拠点として、択捉・国後の航路を開拓し巨額の財を築いた商人となる。函館の発展に大きく寄与した先人ということで、函館市の中に銅像も立っている。
高田屋嘉兵衛が活躍した江戸時代後期は、ロシアの南下政策が盛んでロシア人の軍人が樺太や利尻で村落を襲っていたらしい。そのような流れの中で、ロシアから来た測量船が(略奪が目的ではなく、純粋に測量が目的だったとのこと)択捉島に上陸した際に幕府に捕らえられてしまった。このとき捉えられたのがヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン船長で、松前に護送され入獄の身になってしまった。
その時に、交易のために千島列島に来ていた高田屋嘉兵衛がロシア側に拿捕されてしまい、ロシアに連行されたが、そこでゴローニン問題の調停に奔走し、ロシアのイルクーツク総督に先のロシア軍人による暴挙の公式の詫び状を書かせ、その書面を持って幕府と交渉しゴローニンを釈放させるという大活躍をしたらしい。
ゴローニンはその後、ロシアのサプトペテロブルグに戻り、「日本幽囚記」という本を書き、
当時のヨーロッパ人はそれらを読んで日本に対するイメージを膨らませていったとのこと。それらの影響を受けて幕末から明治に向けて多くのロシア正教の主教が日本に渡って教会を築いてきたらしい。それらの一つが函館のハリストス正教会(日本ではギリシャ正教とは言わずにこのように呼ばれ、ハリストスとはキリストのギリシャ語発音)となる。
函館で、ハリストス正教会内の華麗な装飾を見た後に、一向は江差へと向かう。江差は古くからニシン漁が盛んでニシン蕎麦のルーツとも言われている場所となる。
司馬遼太郎達の関心はニシンではなく、江差の沖で沈んだ開陽丸になる。開陽丸は、幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦で当時としては最新鋭のものだったらしいが、戊辰戦争の際に榎本武揚らが北海道に逃げ逃れてきた際に、江差沖で天候不良の煽りを受けて沈没してしまったものとなる。
この船体を引き揚げるという機運が、司馬遼太郎達が北海道を訪れている1970年中盤に起こり、引き上げられ、現在では開陽丸記念館として江差の観光名所となっているらしい。
開陽丸の話を中心に幕末の話題を行った後は一向は札幌方面に向かい、北海道開拓の話に進む。最初に名前が出てくるのが、共に札幌大通りに銅像がある黒田清隆とホーレス・ケプロンとなる。二人共に明治初期に北海道に渡り、現在の北海道の姿の基盤を築いた。
厚田村出身の洋画家三岸好太郎(下図がその作品)とその妻である節子について述べた後
さらに、日本一寒い町として有名な陸別町を一人で開いた孤高の医師である関寛斎について述べたところで北海道の旅は終わる。
陸別町の冬
陸別町は星空の街でもある。
次回は堺・紀州街道について述べる。
コメント
[…] 街道をゆく – 北海道の諸道 […]
[…] 「街道をゆく」第四巻より、前回は北海道の諸道について述べた。今回は堺・紀州街道について述べる。 […]
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[…] 次回は北海道の諸道について述べる。 […]
[…] また、淡路島は以前”北海道の諸道“で述べた高田屋嘉兵衛のいた場所でもあり、彼の銅像も建っている。 […]