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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
丹波篠山街道
今回の旅は、京都から大阪・兵庫へと向かう路で、奈良から京都に移る時に一時的に作り上げた長岡京とそこに藤原氏が立てた大原野神社から始まり、老ノ坂を経由して、明智光秀が築いた亀山城、丹波篠山城から南下して丹波焼の窯元が集まる立杭、三田を経由して神戸の上部にある有馬温泉までの丹波篠山街道となる。
長岡京は784年に、桓武天皇により奈良の平城京より遷都され、794年の平安京(現在の京都)に移るまでの10年間都として機能した場所となる。司馬遼太郎が訪れた1970年頃までにさまざまな発掘が行われた場所でもあり、JR京都線に乗り、長岡京駅で降りることで訪れることができる。長岡京は京都と異なり、10年間しか都として機能していなかったため、現在では面影は残っておらず、地方のベッドタウンになっている。
長岡にある大原野神社は、当時権勢を誇った藤原氏が自分の一族の氏神として建てたもので、社殿は小ぶりながら、朱装されて、境内の林や池も含めてすべてが「古今」「新古今」の美学で造形化された王朝風の美しい神社となる。
大原野神社からは車に乗り、丹波国(兵庫県)に向かう。途中にある老ノ坂は、当時亀山にいた明智光秀が天正10年(1582年)本能寺へ織田信長を討ちに通った路でもある。
その老ノ坂から、明智光秀が築いた丹波亀山城跡に向かう。ここには近代までは城が残っていたが
大正時代に新興宗教である大本教(教祖:出口王仁三郎)が購入し、神殿を築いていたが当時の日本政府により徹底的に弾圧され、爆破・破棄された曰く付きの場所となる。大本教は戦後復活して、亀山城跡に再び本拠地を構えているらしい。
亀山城跡から一行は丹波篠山に移る。丹波の山並みに立ち込める朝霧「丹波霧」が有名で、丘に立つと霧が谷谷をうずめあちこちの峰が海に浮かぶ島のようになる。
また丹波は、日本六古窯(瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、備前焼、丹波焼)の一つに挙げられる。司馬遼太郎一行は、それらの一つである丹波焼の立杭を訪れている。丹波立杭は、藩や国が作った官窯ではなく、百姓窯として成立し、存在してきたという国内でも珍しい部類に入る窯となる。そのため官窯の器で「こういう型のものを作れば、世間の高級な鑑賞者から褒められる」という志向を持つのではなく、もっぱら農家の需要のために、種入れの壺やすの甕、おはぐろのツボ、山椒入れや徳利などの雑器となり、近年では様々な器が作られているが古くに作られてきたものは以下のような土の香りがするものであった。
江戸時代まではもっぱら実用中心の丹波焼ではあったが、江戸初期に京都の茶人がこの鄙びた窯に目をつけ、茶器も焼けるだろうと上手の知恵を入れてから作られたものが古丹波の名品として今も残っている。さらに昭和の初期に柳宗悦などの民芸運動家が再発見して有名になったらしいが、戦前までは立杭の村の婦人がすの壺を背負って大阪や京都まで売りに出掛けていたという素朴さも残っていたらしい。
一行は、丹波篠山から南下し、三田/有馬に到着したところで街道の旅を終える。
有馬温泉は、神戸から山を越えた山間にある温泉で、愛媛の道後温泉や和歌山の白浜温泉とならび日本三古湯と呼ばれる古くからある温泉となる。
次回は北国街道とその脇街道について述べる。
コメント
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[…] 次回は丹波篠山街道について述べる。 […]
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[…] 例えば、天正10年(1582年)に、”街道をゆく – 丹波篠山街道“でも述べた丹波篠山城を築いた戦国武将の明智光秀が愛宕山威徳院において開いた連歌では「発句」(一番最初の五七五 […]
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