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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
北国街道とその脇街道と古代日本の謎
今回の旅は、琵琶湖北岸の海津(図中中下星)から、奈良時代の官道をたどり、国境、疋田(図中中星)を経て敦賀(図中中上星)、武生を経て北国街道を南下、栃ノ木峠を越えて余呉湖(図中右下星)、木之本を望む旅となる。関連する歴史としては、古代の中国東北部の渤海との交流と、古代の天皇体制が大きく変わったものと予測される継体天皇、そして戦国時代の柴田勝家と豊臣秀吉に関わる話となる。
古代に「越(こし)」と呼ばれた北陸三県は畿内と独立した一勢力をなしていたため、奈良/京都と北陸の境に「愛発(あらち)の関」と呼ばれる関門が設けられていたらしい。場所は現在の有乳(あらち)山の辺にあったらしいが、今は所在が知れない。この「愛発」以外の重要な古代の関所(三関)としては、鈴鹿と不破がある。
愛発以外の関所(鈴鹿と不破)は共に東の方向に向けたものであり、古代の畿内政権にとっての東の辺境となる。本来の北国街道は、このうち不破(現在の関ヶ原)からスタートするものが正統であるらしいが、司馬遼太郎達は琵琶湖の北端である海津からのスタートを選んでいる。
江戸末期までの海上交通は、太平洋を渡れる堅牢な船が少なかった為、「北前船(きたまえぶね)」という言葉通り、日本海航路が主航路となっていた。大阪の物産は瀬戸内海を経て下関周りで日本海に出て、蝦夷地まで運ばれていく、この為日本海側の諸港が賑わったが、その中でも特に栄えていたのが、越前敦賀(現在の福井県)となる。
米も海産物もここで荷卸され、琵琶湖の北岸まで陸送で運ばれた後、塩津、海津の港から再び船積みされて大津に運ばれ、そこから大阪や京都に運ばれたらしい。
街道をゆくでは、このルートに着目し、まず古代(700-900年頃)の中国東北部にあった渤海(ぼっかい)という国と日本との交流の話から入る。渤海国が日本を訪れた時代は聖武天皇の時代(720年頃)であったとのこと。彼らの辿ったルートとしては、スタートは現在のソ連領ポシェト湾から出航し、敦賀に入港、そこから愛発関を通り、海津/大津のルートを通っていた。
まずはスタート地点の海津から、海津は地形的には山が湖岸にせまった景勝の地となる。
海津から北上し、愛発関(有乳山)に向かう。先述したように古代の関所の名残は全く残っていないが、かわりに途中で親鸞聖人の石碑を見つける。
峠を越えて、敦賀に向かう。有乳山からだと徒歩でも2時間程度の行程となる。
敦賀の町ではまず、気比の松原を訪れている。
気比の松原は、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道”に述べている虹の松原(佐賀県唐津市)、三保の松原(静岡県清水市)と並ぶ3大松原と呼ばれる景勝地で、敦賀の観光案内でもトップに出てくるものとなる。一行は敦賀湾を望む岬の先端にある金ヶ崎城址に向かう。
さらに松原町の松原神社に向かう
ここは幕末に現れた水戸天狗党という集団が大量に処刑された場所で、松原神社にも天狗党の首謀者の武田耕雲斎の霊が祀られているという。
ここでは話題は、幕末から古代へと移る。越前出身の「継体天皇(けいたいてんのう)」は、第26代の天皇で、500年頃に即位している。本来は皇位を継ぐ立場になかった(先帝とは4親等以上離れている)ものが、その先代の天皇である武烈天皇が後継者を残さずに崩御したため、当時の豪族である大友氏や物部氏などの推戴(すいたい)により即位したものとなる。そのため現在の皇族は、継体天皇以前の系統ではなく、継体天皇から始まっているという説もある。
このように謎多い継体天皇にまつわる様々な仮説が立てられ、
「古代からの伝言」や「新史論」等様々な書物でのべられている。
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[…] 次回は北国街道とその脇街道について述べる。 […]