街道をゆく – 芸備の道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第21巻 芸備の道

前回神戸散歩について述べた。今回は芸備の道について述べる。
芸備の道

今回の旅は、安芸備後と呼ばれる広島県となる。旅の始まりは広島駅からで国道54号線本庄市三本の矢の逸話で有名な毛利氏の拠点であった吉田と、古くからの古墳が多くある三好に向かう。

司馬遼太郎産経新聞京都支局で記者をしていた時の持ち場が京都大学と宗教であったこともあって「街道をゆく」には、宗教と京都大学絡みの話が多い。今回の芸備の道では安芸門徒の話から始まっている。

宗派としては、室町期から戦国にかけて形成された親鸞の教徒(一向宗本願寺宗浄土真宗)の話が中心ととなる。(先述の記者時代は本願寺に特に行っていたらしい)

一向宗は、禅宗が残したような枯山水の庭園や五山文学のような芸術的なものはほとんど残さず、むしろ極端に迷信を排除したため、一向宗が広まった地域では民俗的なもの(民話等)がほとんど残っていない。つまり安芸や備後には民話があまりなく、さらに他宗の寺院経営は、地頭などの寄進によって土地山林をもつ(地主になる)ことで成立していたのに対して、真宗は土地山林などの寺領を持たず、門徒たちが金穀を持ち寄って寺院を立て、維持していたため、真宗が盛んな地域は比較的豊かであったに違いないと推定している。

同じ浄土真宗でも、東海の三河門徒や越前の加賀門徒は、自立の精神が旺盛で、大名によるおさえつけの支配と収奪をきらい激しく抵抗していた(そのため織田信長は徹底的に排除しようとした)のに対して安芸門徒は例外的で、戦国時代に地方領主と争った様子がない。

これはその頃安芸を納めていた毛利元就の内政能力にあるとしている。

安芸・備後の旅は、毛利元就の本拠であった安芸(広島県)の吉田という山間の小さな町から始まる。吉田町広島島根県の松江を結ぶ国道54号線で、広島から45km1時間少々の場所にある。

その吉田町に行く前に、可部(広島市が山間部に入る境にある町)の勝円寺で、真宗の思想的な次元である「三業惑乱」について述べられている。

「三業惑乱」について述べる前に浄土宗を中心として流れについて述べる。これは以前大乗仏教と般若経でも述べた大乗仏教の部類に入る浄土宗に対して、最澄が中国より持ち帰った書物の中にそれら浄土宗の経典があり、法然がその浄土部門だけ引き抜いて比叡山をおり、京都の庶民のために浄土宗の崇める阿弥陀如来の本願のありがたさを説いて開いたのが浄土宗となり。さらに、その弟子の親鸞が法然の浄土宗より自力的な夾雑物を取り除き、これが真の浄土宗だとしたのが浄土真宗の体系となる。浄土真宗は、罪があろうが、如来から逃げようが、どういうふるまいをしても、またどんな人であれ、これをすべて救済し、西方浄土に連れて行くという教えであり、南無阿弥陀仏と唱えるのも、浄土へいくための呪文ではなく、どんなことがあっても自分を救ってくださるという本願に対する感謝の声で、感謝が宗教生活の基本になっているものとなる。これは、それまでの仏教とは大きく異なっているものとなる。

浄土真宗の教えだけだと修行や経典を読んで悟りに至るという既存の仏教の概念と大きく外れるため、江戸中期より浄土真宗の中枢である本願寺の中から、三業という祈願や請求という考えを取り入れ、これまでの如来が救ってくれるという他力の世界から、祈願や請求という自力の世界に戻してしまうという流れが起きた。

それに対して、それはそもそもの親鸞の考えとは全く異なるのではないかとして戦ったのが「三業惑乱」という事件となる。この事件は、幕府を巻き込み最終的に元の教えに戻るという結末となった。

前述のような宗教の話が続いた後度の話に戻り、広島は可部を超えたところから山に入る。山に入って20kmほど登って上根という地点まで入ると、そこの水は瀬戸内海側に流れるのではなく、150km離れた日本海側の松江(旧出雲国)に流れていると述べられている。司馬遼太郎は、そのような地形的な特徴から、安芸の国(広島県)の瀬戸内海よりの文化は海沿いの限定した領域だけで、数十km入るともうそこは文化圏的にも出雲国の文化(水稲農耕と砂鉄製鉄そして独自の神話)に属するのではないかと述べている。その証拠に、54号線をさらに登った「三次」という地域では出雲の国の特徴とする古墳が密集していると述べている。

再び旅に戻る。三次と上根の中間にあるのが吉田町となる。吉田町は下図の地図を見てもわかる通り、山に囲まれた小さな盆地でとなる。

この街の北東の山間に毛利元就がいた郡山城があり、毛利元就の墓もある。

吉田町の毛利元就の墓を見た後に、多治比の猿掛城に向かう。ここは、毛利元就が幼少期を過ごした場所で、吉田町の西を流れる多治比川沿いの小高い丘のような山にある。

毛利元就はここで育ち、毛利氏自体は当時、国道54号戦を上がった松江近辺に勢力を伸ばしていた尼子経久に脅かされる弱小豪族でしかなかった。尼子経久といえば、1997年に放映された大河ドラマ「毛利元就」で故緒方健が演じていたものを思い出される。

毛利元就には元々興元という兄がいたのが、応仁の乱で隣国の大内義興(興元の興の字はそこからもらっている)が応仁の乱で京都に出向いた時に、元に出兵して戦死し当主となった。その後大内氏と尼子氏の戦いの影に隠れながら権謀を繰り返し、少しずつ勢力を拡大。大内氏が配下である陶晴賢が下剋上で大内氏を滅ぼした後に、陶晴賢を厳島神社のある厳島の戦いで破り

その後尼子経久が死んだ後にその息子の尼子晴久月山富田城の戦いで破り、現在の山口、広島、島根、鳥取を含んだ広大な領地を治めるに至った。その後は関ヶ原で西軍に加わったため、山口(長州)に閉じ込められ、幕末の中心となったことは”街道をゆく-長州路“に述べている。

尼子氏が滅んだ時に、家臣であった山中鹿之助が尼子氏再興のためら誓った言葉である「願わくば、我ら七難八苦を与えたまえ」は有名であり、島根県には山中鹿之助まつわる史跡が多々ある。

旅はその後ニ千基の古墳が集中する三次に向かい、古代出雲に思いを寄せて終わりとなる。

芸備の国(広島)は海外観光客にも人気のある独特の文化を持った地方となる。

次回横浜散歩について述べる。

コメント

  1. […] 広島の歴史に関しては”街道をゆく – 芸備の道“にも述べているので、興味がある方はそちらも参照のこと。 […]

  2. […] 街道をゆく – 芸備の道 […]

  3. […] 街道をゆく – 芸備の道 […]

  4. […] 達できる強大な首長の権威を示すため、大きな墳丘が作られることになり、”街道をゆく – 芸備の道“に述べたように、半島に近く鉄の文化があった広島や島根に、そして大和朝 […]

  5. […] 次回は芸備の道について述べる。 […]

  6. […] 連歌は、平安時代に和歌を詠む貴族たちが、私的な場の座興として始めたといわれている。それが室町時代になると公の正式な詩歌と見なされ、政治とも密接な関わりを持つようになる。明智光秀や”街道をゆく – 芸備の道“で述べた毛利元就、”街道をゆく-甲州街道“で述べた武田信玄など多くの武将が戦勝祈願として戦の前に連歌を詠み、神社に奉納している。また連歌は複数人で長時間かけて行うものなので、中央(京都)の様子を探るなど貴重な政治の情報ツールでもあった。 […]

  7. […] 台の後は、日本三景の一つである松島に向かう。日本三景は丹後の天橋立、”街道をゆく – 芸備の道“でも述べている安芸の宮島、そして松島で、松尾芭蕉もここを訪れ俳句を造 […]

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