life tips & 雑記 禅の歴史と思想 旅と歴史 アートとスポーツ 本ブログのナビ
サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
神戸散歩
今回の旅は兵庫県の神戸市となる。題名の通り神戸市の海岸周りの小規模な「散歩」の旅となる。旅は神戸港に浮かぶ人工島・ポートアイランド南端にある神戸ポートピアホテルからスタートし、ポートライナーに乗って貿易センターでおりて生田川に出る。さらに新神戸駅の裏側にある布引の滝、神戸市街地にある、旧外国人居留地、神戸華僑歴史博物館と続く。
神戸は横浜と共に、日本の大都市のうち、例外的に江戸期の城下町の伝統がない。西暦1868年1月1日に開港し(1968年10月に明治と改元)、都市化した。最初は、港の港長までも御雇外国人の英国人であった。さらに、海岸の砂地に外国人居留地ができ、やがて山手に雑居地が成立して、都市としての原形をなした。
この点、祖型は外国人が作ったに等しい。当初は、県令や県官などはともかく、この新都市にやってきて働く日本人は、外国人を主人とするか、かれらの貿易の水揚げや船舶業務の利益のおこぼれをもらうことによって衣食する人が多く、水位として、海外の習慣や文化の影響を受けやすかった。旧幕時代に状況として不自由ながら開港した横浜に比べて、この点では、神戸でどれほど外国人の真似をしても鎖国を原則とする旧幕府のお叱りをうけることなく、また攘夷浪士に叩っ斬られるような心配もなかった。
神戸の居留地(法的には明治32年に終了している)は、元々生田川の河口付近の泥と砂の低湿地を埋め立て、盛り土をし、五番目上にに区画し、一番、二番と番号を振り、逐次建物が建ったものとなる。
この居留地に、居留地ができてから2年後の1970年に開設されたのが香港上海銀行(HSBC:下図奥)とオリエンタルホテル(下図手前)となる。
HSBCは神戸の他、横浜、長崎、大阪に設立されている。
オリエンタルホテルは1870年から1995年まで開業していたが、1995年の阪神淡路大震災で倒壊はしなかったものの、建物が大きな損傷を受けホテルとしての営業が困難となり、しばらく休業した後に廃業した、その後2008年に三井不動産がプロジェクトマネージャーとして、「ORIENTAL HOTEL KOBE(オリエンタルホテル神戸)」の名称でホテルを新規開業している。
神戸で元々港として栄えていたのは、数km西側の大輪田泊(現在の和田岬東方)で、そこでの宋貿易で富を増やし、最終的に都(福原京)を現在の神戸駅の山側に作ったのが平清盛となる。居留地と呼ばれる地域はそれより、東側に行った現在の三宮駅付近であり、そこに港を作り海軍操練所としたのは勝海舟となる。和田岬には勝海舟が設計した円筒状の砲台があり、三菱重工の構内に史跡として残されている。
神戸の水と聞いて思い浮かべるのが六甲の水だと思う。
昔から、神戸の水は美味しいと有名で、神戸に寄港する外国船の喜びは、水槽の水を空にして神戸の水を溢れるほど積むことだそうだ。六甲山系から湧き出る水が出る場所で有名なのは、新幹線新神戸駅から徒歩15分の場所にある布引の滝だ。
布引の水は、六甲の老化した花崗岩層をくぐってきて適度のミネラルを含んでいるためにうまいし、また船が赤道を超えてもうまさに変化がないとも言われているらしい。そのような天然の恩恵を受けたおかげで、神戸の水道は他の都市に比べて遅れ明治の中頃までは、水屋というものが存在していたとのこと。
神戸にはポートアイランドという人工島があり、神戸の中心部である三宮からモノレールで向かうことができる。島の先には神戸空港もある。そこにあるホテルに司馬遼太郎達は止まっていたとのこと。
ホテルの名前は明かされていないが、街道にゆくに記載されていた表現から「神戸ポートピアホテル」ではないかと推測されている。ポートアイランド自体は1981年に街開きをしたとのことなので、司馬遼太郎等が泊まった頃は、丁度街ができてホテルも新しいものだったのではないだろうか
ポートピアホテルからの夜景、100万ドルの夜景とも言われ、絶景だったらしい。
神戸は、横浜や長崎と同様に中華街もあることも有名である。司馬遼太郎等は、神戸に在住の二人の陳姓の友人に会っている。一人が陳徳仁で、もう一人が陳舜臣で、陳舜臣は江戸川乱歩賞を受賞している作家で、『枯草の根』『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など中国の歴史にまつわる小説を書いている。子供の頃に読んだ『新西遊記』が今でも思い浮かべられる。
旅の締めくくりは、青丘文庫となる。実物大のジャイアントロボがいる神戸長田区は韓国・朝鮮人の多い地域として知られている。
そこでケミカルシューズを作って財をなした在日朝鮮人の経済人であり学者であった故・韓皙曦が設立したものが青丘文庫で、朝鮮史の専門図書館としては国内外で有数のものだったらしい。現在ではそれらはなくなり神戸市立中央図書館に全ての蔵書が寄贈されている。
長田区で生まれた世界初のものとしてビーチサンダルがある。ビーチサンダルが生まれたのは終戦直後、アメリカのレイ・バスティンという工業デザイナーがGHQが進める復興事業で日本に来た時に草履(ZORI)を見てそのシンプルで合理的な形に驚き、水を通さない高性能な素材「独立気泡スポンジゴム」を開発した長田区の「内外ゴム」と組み、鼻緒の履き物に親しみのない外国人にも合うように木型を作って研究を重ね、鼻緒を細くしたり、つま先から踵まで傾斜をつけたりして完成させたものが「ビーチウォーク」と名付けられ1950年代にアメリカに輸出されたのが始まりと言われている。
ビーサンはその後爆発的なブームとなった(1957年1月には19万足だった輸出数は7月には120万足に迫り、1959年12月には1千万足超を記録した)。ビーサンは日本では「スポンジ草履」とか「ビーチサンダル」と呼ばれているが、英語では「flip-flop」と呼ばないと通じないまさに世界的な履き物となっているのである。
次回は芸備の道について述べる。
コメント
[…] 街道をゆく – 神戸散歩 […]
[…] 横浜港の開港は1859(安政六)年となる。これは前回”神戸散歩“で述べた神戸港の開港である1868年よりも10年以上前で、神戸が明治に入ってから開港したのに対して、幕末の動乱期 […]