街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第32巻 阿波紀行

前回島原天草の旅について述べた。今回は淡路島から徳島までの阿波紀行について述べる。
阿波と淡路島の旅と歴史

今回の旅は大阪の小さな港・深日からフェリーに乗り、淡路島洲本港に向かい。車で淡路島を抜けて徳島と淡路島をつなぐ大鳴門橋を渡りながら鳴門の渦潮を眺め、土佐泊へ行き紀貫之の思いをはせつつ、堂浦一本釣り漁法テグスを広めた堂浦の漁師の功績を述べた後、大麻比古神社へ行き、ドイツ橋を見る。その後、吉野川流域に出て、勝端城跡田中家住宅とたどり、なじみの料亭で阿波踊りを体験する。四国八十八か所の1番札所の霊山寺でお遍路さんや弘法大師について考え、吉野川北岸を西に進み、脇町池田を経て、平家の落人で伝説の残る「秘境」祖谷に向かう旅となる。

阿波は南海道と呼ばれる。この道というのは、文武天皇(683〜707)のときに定められたもので、全国を七道にわけ、東海道東山道北陸道山陰道山陽道、南海道、西海道としていたもののうち、南海道は紀伊(和歌山県)を出発して、淡路国へ渡り、海を隔てて、四国全部を含める。

今回の旅は大阪在住の司馬遼太郎が、南海電車に乗り(大阪難波駅から和歌山まで続く電車)、深日(ふけ)という港まで行くところから始まる。

そこから淡路島へ船で渡る。

淡路島では、洲本という港につく。淡路島は現在では、兵庫県垂水から明石海峡大橋がつながり、関西圏の人から見ると、手軽に車で出かけられる観光地となっている。

また最近は、パソナの本社が移転するなどして、賑わいを見せており、建築家 坂茂による「禅坊 靖寧」などの名作建築や

淡路島公園内にあるニジゲンノモリなど大人も子供も楽しめる場所となっている。

淡路島の歴史は古く、日本列島がイザナギノミコトとイザナミノミコトにより生み出された際に、一番最初に作られた島だとされている。これは初期の天皇家とのつながりが深かった(淡路島出身の皇后の存在)ためであるらしい。

近世・江戸時代に入ると、淡路島は蜂須賀家(豊臣秀吉の初期からの家来であった蜂須賀小六を家祖とする)の領地で、徳島の一部という扱いだったらしい。実際に淡路島を支配していたのは、その家臣である稲田植元という武将であったが、この植田は、秀吉の初期の家来の時代は同格であったのが、蜂須賀を主、植田を従とする扱いを秀吉が行いそのまま家来という形になっていったという因縁があり、江戸時代の間(約300年)ずっと反発した後、明治維新の版籍奉還の際に、淡路の稲田家は、もともと蜂須賀の家来ではなく、同格だったので、独立の”稲田藩”を認めてほしいと主張して、徳島側と衝突し死人が出たという事件を起こした。

この事件に対して、稲田側への処罰として、北海道色丹島への移住が下され、さらに稲田氏を徳島県から切り離すため、所属を兵庫県とし、北海道への移住費も兵庫県が出したということがあり、明治以降は兵庫県となった。

また、淡路島は以前”北海道の諸道“で述べた高田屋嘉兵衛のいた場所でもあり、彼の銅像も建っている。

その後淡路島を通り、鳴門大橋を渡る。鳴門大橋は、有名な鳴門の渦潮(瀬戸内海と太平洋の干満の差によりその境である鳴門で渦となる潮流が生じるもので、イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と並んで「世界三大潮流」と呼ばれる)の上にかけられた橋で、一日に数回見ることができる。

鳴門大橋を眺めながら、司馬遼太郎は「ソフィーの選択」という映画とそこに登場するブルックリン橋について思いを寄せている。

ブルックリン橋は以前”人工知能とテレビドラマ“でも述べたパーソンオブインタレストにもしばしば登場するニューヨークを代表する景勝の一つとなる。

鳴門を過ぎた後は、堂浦(どうのうら)に向かう。ここでは江戸初期にテグスという白色透明の釣り糸を見つけ、それにより魚が多く釣れるようになった場所となる。このテグスは元々、大阪の薬問屋が薬用の草根木皮を中国から輸入した際に、生薬を包んでいた油紙を梱包していた半透明の糸で、それを見かけた堂浦の漁師が釣りに使うと良いのではないかと思い、薬問屋の主人に問い合わせたところ、主人が乗り気になり、糸だけを輸入するので、このテグス(天蚕糸)を瀬戸内海沿岸の浦々を回って実地に使って見せて、需要を高めてもらえないかと販売員になってもらったというころから始まっている。

天蚕糸は天蚕の幼虫のなかに絹糸腺と呼ばれるどろりとした駅が入っており、それを取り出してすにつけ、引き伸ばすことで細い糸として使えるようになる。

堂浦ではこの天蚕糸で商売をする家が増え、さらに天蚕糸を使った一本釣りの技術が栄え、それが日本列島津々浦々まで広がっていったらしい。

また鳴門にはドイツ館と呼ばれる第一次世界大戦のドイツ人捕虜を収容した板東俘虜収容所」で暮らしたドイツ兵捕虜たちと板東の人々の交流の様子を後生に伝えるために建てられた記念館がある。

第一次世界大戦までは、捕虜に対する扱いも優遇されており、日露戦争の時代の愛媛県松山の捕虜収容所は世界的にも有名で、ロシア軍陣地から”マツヤマ、マツヤマ”と叫んで投降してくる兵も多くいたという話もあるらしい。(ちなみに、松山の捕虜収容所は松山城のある山の麓にある城のの二の丸跡に建てられ、後にそこが中学校となり、その中学に夜とになるとロシア人の亡霊が出るとか出ないとかの噂があったらしい)

松山や徳島がある四国は、温和で人気の良い土地柄であり、徳島の捕虜収容所でも、相当な自由がゆるされ、広大な敷地内に、自分達の小屋を作ったり、当時珍しかったキャベツやトマトの栽培方法や、バター、チーズの作り方を地元民に教えたりしていたらしい。

ドイツ館を訪れた後は、室町時代に京都を支配していた細川氏の城である勝瑞城跡を訪れる。吉野川沿いにあるこの城跡は別名阿波屋形とも呼ばれて、細川氏の家来であり、細川氏を滅ぼした三好氏の墓標が苔むしている場所となる。

その三好氏も部下の松永久秀によって滅ぼされ、さらに松永久秀は室町幕府の将軍である足利義輝を殺した後、織田信長により滅ぼされるという応仁の乱後の混乱の歴史となる。

徳島では藍作りが盛んであった、地名にも藍住町というものがある。日本の藍染は明治時代までは、単に美しいというだけでもビジネスになったが、経済の国際化が進み、インドからの安価なインド藍やドイツからの化学染料の人造藍が入り始めると負けてましい。現在ではほとんど残っていないらしい。

徳島のもう一つの名物は阿波踊りとなる。阿波踊りの原形は聖霊祭念仏踊りと言われているが、起源は明らかでない。徳島藩が成立してから盛んになったとされ、一説では当時の阿波守・蜂須賀家政が徳島城を竣工した際に、「城の完成祝いとして、好きに踊れ」と触れを出したことが発祥と言う説もある。阿波踊りは三味線、太鼓などの2拍子の搬送に乗って”連(れん)”と呼ばれる踊り手の集団が踊りる歩く。

えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…と唄われるよしこののリズムで知られる。しかし実際には、よしこのは大手の有名連以外ではあまり使われず、主にヤットサーヤットサーという掛け声のほうが多用されている。

旅は、徳島からスタートするお遍路について述べられて終わりとなる。お遍路は、1200年前に弘法大師(空海)が修行した四国にある88の霊場を辿る巡礼の旅で、徳島からスタートし高知、愛媛、香川の順に巡る、世界的にも珍しい「回遊型」の参拝ルートが特徴で、その道のりは1400kmに及び、すべての霊場(札所)を辿ることで願いが叶ったり、弘法大師の功徳を得られるといわれている。最近は参拝する目的も多様化していて、健康祈願や近親者の供養、健康増進、自分探しの旅など、人によって実にさまざまとなっている。

次回は和歌山県の紀の川を中心とした旅について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史 […]

  2. […] 中世、鎌倉時代には、”街道をゆく – 三浦半島記“で述べた梶原景時の弟である梶原朝景が事実上の初代守護として派遣され、さらに、三浦義村が守護となり、三浦氏滅亡後は北条氏の一族が治める地となっていた。室町時代には、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“にも登場する細川氏が支配していたが、応仁の乱により、細川氏が豪族を引き連れて京都に赴くことで、国元を長期間不在にすることになり、影響力を徐々に減退させ、多くの勢力が争う場所となった。 […]

  3. […] 街道をゆくは、この須磨・明石から、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“で述べている淡路島に向かい終える。 […]

  4. […] で学問を修めていたが、19歳を過ぎたときから30歳まで、一説によると”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“で述べた阿波国(徳島県)、”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山 […]

  5. […] 第39巻より。 前回は壱岐・対馬の道について述べた。今回は米国ニューヨークの旅について述べる。今回の旅はマンハッタン島を中心に行われている。司馬遼太郎一行はタクシーでマンハッタン島北端にあるインウッド・ヒルズを訪ね、その後アメリカン・インディアン博物館(現在ではインディアンととう名称は用いられずネィティブアメリカンと呼ばれているが、博物館の名称は変わっていないようである)とセントラルパークを訪ね、その後ブルックリン地区で、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“でも述べたブルックリン橋を作ったローブリング親子の事業を思いを寄せる。更に写真家のマーガレット・パーク・ホワイトとアメリカの機械文明について述べた後、プロスペクトパーク、ウィリアムズパークに向かい、アメリカとユダヤ人について考察した後、グリーンウッド墓地にて、幕末の日本で活躍した米国公使タウンゼント・ハリスの墓を訪れる。 […]

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