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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
紀の川流域の根来寺と雑賀衆
今回の旅は和歌山県和歌山市周辺、かつて栄華を誇り、密厳浄土をとなえた覚鑁(かくはん)により作られた根来寺と、鉄砲集団として武威を誇った根来衆について述べられた後、聖天宮法輪寺、日前国懸神社をめぐる旅となる。
峠(今は風吹トンネル)の頂上が216メートルという低い丘陵で、古来、ここを根来街道が通っている。北へゆけば泉州(現・大阪市泉南市)になり、南に降りれば根来寺の門前になる。さらに降りれば、紀の川が光のを見る。紀の川流域では、狭い平野が、寸土をむだにせず耕されている。
根来寺の歴史は、平安末期に、一時は高野山座主だった覚鑁(かくばん)が建立したものとなる。
覚鑁がいた平安末期は”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“で述べたように、これまでの自力の解脱という体系から離れた、解脱せずとも他力(阿弥陀如来)で救済されるという浄土信仰が生まれた時代で、覚鑁は元々空海が開いた高野山で学び、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べたような真言密教の教えを、浄土信仰の思想とマージし、真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明ではなく、救済をするときには阿弥陀如来に変わるという思想を打ち立てた。
そのため、かれは、もし厳格な三密行ができず、即身成仏できない人も、一蜜だけ行ずればそのまま密厳浄土に生まれる、という考え方を持ち、それを「密厳浄土略観」とした。
空海の密厳学は、空海が完璧ものに仕上げて死んだため、その後継者等はなすべきことはなく、ただ空海を学ぶことに終始していたのに対して、空海後二世紀を経て、覚鑁が現れ、空海の密教に浄土思想を加える思想体系を打ち立てたのである。
この新しい思想は、高野山の中では大きく反感を呼び、1140年に高野山を追われ、そのまま根来に入り、根来寺ほ法城としてその思想を広めたらしい。
根来寺の山内の建物は多く、堂塔や伽藍、およびその付属建築物は二千七百余りで、行人の住む坊舎が八十坊もあり、僧俗あわせて、二万人以上がこの山中に住んでいた、一大宗教都市であったらしい。
また一大城郭でもあったらしく、上記の古図を見ると、総構えも実に要害で、塔頭のたてかたも城郭建築に近かった。さらに付近の寺領への行政の庁であり、紀州は根来によって天下におもんぜられていた。
商工業も大いに発展し、対明貿易までも行っていて、さらに根来寺は全国に情報網をもっており、たとえば1543年に、薩摩の南にある種子島に鉄砲が伝来したと聞くと、すぐ人を出し、伝声した2艇のうちの一艇を譲り受けて、根来に持ち帰り、酒井の鍛治に大量に作らせていて、鉄砲伝来の話の中には必ず根来が出てくるものとなっている。
その後、根来衆は、戦国大名に先駆けて鉄砲を持って武装し、最終的に豊臣秀吉によって滅ぼされるまで、抜きん出た鉄砲集団として四方から恐れられていた。
また根来では、根来塗も有名な特産物となる。これは、先述した巨大な宗教都市で、食事のための什器が必要となり、飯碗、汁椀、茶器から、神饌具、仏具、文房具、棚や机などの調度から、具足、兜に至るまで、すべて近くにある紀州の山の木を使った漆が使われた。
今日”根来物”として古美術界で珍重されているものは、椀とか湯桶、折敷(おしき;檜で作る角盆)、酒器、盤、高杯(たかつき)などで、根来塗りの特徴は、椀などは形がふっくらとして豊かで、朱漆の深みのふる赤みと使い込んだときに出てくる裏地の黒の美しさとなる。特に中世(室町時代)のものは「古根来」と呼ばれて価値が高い。
紀州(和歌山県)と大阪南河内郡を隔てている山脈は、”街道をゆく – 河内のみち“で述べた生駒・金剛山脈、あるいは”街道をゆく – 葛城みち“で述べた葛城山脈、またその南部だけを和泉山脈とよぶ場合もある。
ここは、山岳仏教や密教の一大巣窟であり、その分野の古い寺が多い。
まず高貴寺(こうきじ)。
山脈の西峰にあって、草木の香気(こうき)が高いところから命名された古刹となる。
さらに楠木正成が学んだとされる歓心寺、”街道をゆく – 河内のみち“で述べた西行が入寂した弘川寺、空海が唐から帰った後最初に住し、請来した仏典の整理をした場所である施福寺等もある。
根来寺が滅ぼされた後、紀の川沿いには和歌山城が建てられた。
和歌山城は、江戸時代以降は”暴れん坊将軍“で有名な徳川吉宗を出した紀州徳川家となるが、元々の普請は、豊臣秀吉により行われ、そこを設計したのは”街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 坂の上の雲と南国の伊達家“で紹介した宇和島城や大洲城も設計した藤堂高虎となる。
和歌山城の特徴は、野面石(のずらいし)と呼ばれる、山野から切り出したままの自然の石を積んでいるものとなる。
和歌山城の天守閣の中は小さい博物館になっており、そこに雑賀鉢(さいがばち)と呼ばれる独特の兜が展示されている。
戦国時代に、紀の川流域の地侍たちが連合して”雑賀党“をつくり、外部から支配されることを拒んでいた。彼らはこの兜に見られるようにさまざまな点でユニークであった。ユニークな点の一つは、鉄砲を多用し、射撃に習熟していたこと。もう一つは浄土真宗の信仰を団結の絆にしていたこと。そして、上下の関係がゆるやかで、その気風が中世日本には珍しく市民的だったことにある。さらに、彼らは工業の能力が秀でており、上の兜も、この地の鍛冶、漆工、鋳金術の所産で、楕円の円筒を深目に輪切りにしたような形で、全体の色も、朽葉色の漆で仕上げられており、美しい。
和歌山は古代から農耕が盛んで、神々の憑代の森をあちこちに残して神の場としていた。それらを代表する場所として、日前神宮・國懸神宮の2つの神社が一つの境内にある日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる神社がある。
ここは、森に囲まれた古代の神々がいるパワースポットの一つとなる。
次回は白河・会津の道について述べる。
コメント
[…] 街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆 […]
[…] 高野山からは”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“でも述べている紀州和歌浦に向かい、紀三井寺へと芭蕉は行く。 […]
[…] そこで寺領を管理するものが現れ、寺領の防衛や管理のために心が猛々しく腕力の強いものが集まり、農民を搾取していった。さらに政治的な強みを持つため、”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“で述べている比叡山延暦寺(天台宗総本山)の傘下に入り、近隣の地主も領土安堵のため、墾田を白山に寄進したという形にして、自らも僧名を名乗るなどして、最盛期には領地は五万石、動員力は二十万人という大名なみの勢力となっていった。このような形は日本全国で見られ、”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“で述べた和歌山の根来寺も同じようなしくみで巨大になっていったものと考えられている。 […]