街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第27巻 檮原街道

前回の旅は、大分県を中心に、全国に4万社余りあるという八幡神の故郷、大分県の中津宇佐と、温泉の街、由布院と九州の小京都とよばれる日田であった。今回は「街道をゆく」第27巻より。檮原(ゆすはら)街道坂本龍馬ら幕末の志士たちが土佐から伊予へ脱藩した道筋を巡る旅となる。高知市に飛行機で向かい。佐川町で坂本龍馬高杉晋作の遺墨等、維新の志士たちの資料を見たのち、酒造業の古い街並みである酒蔵通りを散策する。次に東津野村(現・津野町)に入り、津野出身の室町時代の五山文学の雄である義堂周信絶海中津について述べられた後、茶畑や高野の茶堂に立ち寄る。檮原町では千枚田や六志士の墓に参り坂本龍馬を思う、夜は三嶋神社津野山神楽を見学し、宮野々の番所や、海津見神社を訪れたあと、県境の姫鶴平高知の人々と別れて、松山へと向かう

高知は、四国の南側に位置し、東西に細長く、南が太平洋、北が四国山脈に囲まれた場所であり、四万十川仁淀川などの日本でもトップクラスの美しい清流を持つ自然豊かな南国となる。

高知は古代から歴史に現れる。古代からある土佐神社に祀られる阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は大国主神宗像三女神多紀理毘売命の間の子とされており、”街道をゆく – 葛城みち“で述べた賀茂一族が祀っていた神でもある。鴨(賀茂)一族は、陰陽師として有名な安倍晴明や”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“でも述べた忍者の始祖とも呼ばれる役行者などがいることでも有名な一族となる。

中世、鎌倉時代には、”街道をゆく – 三浦半島記“で述べた梶原景時の弟である梶原朝景が事実上の初代守護として派遣され、さらに、三浦義村が守護となり、三浦氏滅亡後は北条氏の一族が治める地となっていた。室町時代には、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“にも登場する細川氏が支配していたが、応仁の乱により、細川氏が豪族を引き連れて京都に赴くことで、国元を長期間不在にすることになり、影響力を徐々に減退させ、多くの勢力が争う場所となった。

これが、織田信長の時代になり、長曾我部元親の手によって統一され、元親は次いで四国平定に乗り出したが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉四国進出に敗れ、土佐一国の領主に収まることとなった。

長宗我部一族は、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れたため、領地は没収され、土佐一国は、東軍に属した遠州掛川城主山内一豊に与えられる形となり、最終的に山内氏が16代にわたって、廃藩置県に至るまでこれを統治することとなった。この辺りの話は、司馬遼太郎の「夏草の賦」での曽我部元親の話でも描かれている。

山内一豊のエピソードして有名なものは、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚となる。これは、貧乏だった山内一豊が主人である豊臣秀吉へのアピールの場である天正9年(1581年)の馬揃えの際に、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという内助の功の話となる。

山内一豊に関する書物としては、司馬遼太郎の「功名が辻」があり、また、「功名が辻」はNHKの大河ドラマにもなってい。

山内氏の土佐入府にあたり、長曾我部遺臣の一領具足たちは頑強な抵抗を見せ、最終的には、一揆中の裏切りによって、多くの旧臣が打ち取られる形でことは決着した。一豊が入府したのちも、滝山一揆など、数年間は散発的な反乱が続いていた。この長曾我部遺臣の集団は、山内氏の統治の中で、押さえつけられ、高知の中でも周辺部に住まわされることとなり、その反骨精神は幕末まで続くものとなる。

そのような高知において、”街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 坂の上の雲と南国の伊達家“でも述べた隣国である伊予の国との境にある檮原(ゆすはら)を中心に今回の旅は行われている。

梼原町は町面積の91%を森林が占め、標高1455mにもなる雄大な四国カルストに抱かれた
自然豊かな山間の小さな町となる。四国カルスト高原は、全国的にも珍しい高位高原カルスト地形になっており、至る所に手付かずの自然が残り、晴れた日などには太平洋から瀬戸内海まで一望できる自然豊かな場所になる。

土佐(高知)には、「イチガイ」とか「イゴッソウ」という思い詰めて唐突なことをする行為を指す言葉や、他人の意見を聞かない精神現象や性格を表すことばが、わざわざ用語としてある。司馬遼太郎によると、隣の伊予は風儀のいい文化を持つ地で、その文化はひとびとに平衡感覚を押し付け、優等生を生んであるのに対して、土佐の風儀はあらあらしいらしい。

そのような反骨の文化の中から、土佐では多くの幕末の志士を生んでいる。他の地方の志士と異なる点は、薩摩も長州も藩主や藩の体制と結びついた活動をしていたのに対して、坂本龍馬を含めた土佐の志士は、藩を抜けて(脱藩して)活動を行っていたところにある。

梼原は、そのような土佐を抜け出す小天地となり、土佐人が追い求める自由への入り口でもあったらしい。また、中世の梼原は、文化的土壌もしっかりしていたらしく、例えば、”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“で述べた鎌倉五山の僧侶たちは、中国にも往来し当時の最先端の文化人であったが、そのような五山文学の中でも双璧と言われる義堂(義堂周信)と絶海(絶海中津)の2人とも、梼原の津和氏の出身であり、彼らが書いた詩は、当時の教養人にふかく敬せられていたらしい。

梼原を超えた後は、土佐神楽の話題となる。神楽には巫女神楽、出雲神楽、伊勢神楽、獅子神楽、山伏神楽等の系統があるが、高知の神楽は鈴、榊等々の採り物を手にしての舞や記紀の神話を素材にした劇的な舞などから構成される出雲神楽の系統に分類され、剣などの採物舞や曲芸的な舞、舞手と氏子のやりとりも楽しい鬼(ダイバンとよぶ)を退治する舞などに特徴があるものとなる。

神楽鑑賞の後は、四国カルトに登る。カルストとは石灰岩などが雨水などに浸食されてできた地形のことで、四国カルストは、山口県の秋吉台、福岡県の平尾台と並ぶ、日本三大カルストの一つとなる。愛媛県と高知県をまたぐ尾根沿いに、約25kmに渡って連なるカルスト台地が広がり、標高1000mから1500mの高地にあって、東は「天狗高原」から、「姫鶴平」などを経て、西の「大野ヶ原」まで、“日本のスイス”に例えられる壮大な景観が続くものとなる。

ここでは赤牛/黒牛が放牧されている。司馬遼太郎の時代は、愛媛側(伊予)いる牛が全て黒牛で、高知側(土佐)にいる牛が全て赤牛だったらしい。

のどかな高原の景色の中で今回の旅は終わる。

コメント

  1. […] いたものが、徐々に全国同じものとなっていったらしい。ちなみに”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅“で述べた高知の豆腐は、非常に硬く縄でからけで持ち帰ることが […]

  2. […] 阿波と淡路島の旅と歴史“で述べた阿波国(徳島県)、”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅“で述べた土佐国(高知県)、”街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 […]

  3. […] 街道をゆく10巻より。 前回は檮原(ゆすはら)街道、坂本龍馬ら幕末の志士たちが土佐から伊予へ脱藩した道筋を巡る旅であった。今回は羽州街道–山形の道となる。司馬遼太郎は、芭蕉の名句である「五月雨をあつめて早し最上川」に謳われた最上川の情景を確かめるべく、山形を訪ねる。山形では、奥羽街道を縦断するコースとなる。スタートは天台宗の古刹、立石寺から始まり、山形市郊外の紅花農家に立ち寄り、米沢市西南の小野川温泉に泊まる。翌日は、上杉神社や林泉寺など、上杉氏ゆかりの旧跡を訪ね、その後最上川を白鷹町荒砥で眺めた後、上山温泉で泊まり、翌日山形市内に入る。 […]

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