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日本のアートの歴史と仏像について
日本のアートは、独自の美学と表現が発展してきた豊かな文化的遺産を持っており、古代から現代まで、さまざまなジャンルやスタイルで表現されたものとなっている。それらは特に仏教や神道といった宗教との関連性が強く、仏教美術や神社仏閣の建築など、宗教と芸術が融合した作品が盛んに制作されてきた。今回は、日本のアートの歴史を辿りながら仏教美術の中でも大きなウェイトを占めている仏像を中心に述べてみたいと思う。
縄文の土偶
“街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語“でも述べている縄文文化の代表的な造形物として土偶がある。
土偶は縄文時代草創期より作られていた。当時は親指程度の大きさで、頭部がなく、性別も不分明であった。この「カオナシ」土偶に頭がつき、サイズも大きくなって、形のバリエーションが増えるのは、縄文中期(5500万年〜4400年前)以降となる。さらに見つかる土偶のほとんどが破壊され、破片は様々な場所で見つかっていることから、何らかのマツリに用いられていたと考えられている。
このような土偶のほとんどは東日本で見つかっており、これは約7300年前、鹿児島県南方沖の鬼界カルデラで起こった巨大噴火によって、南九州から四国にかけての地域が壊滅的な打撃を受けたのが要因の一つとして考えられている。
縄文時代晩期(3200年〜2400年前)に現れたのが遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)となる。遮光器土偶 は、目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)。
実際には顔面表現がデフォルメされたもので、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていると言われている。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。
弥生・古墳時代の埴輪
縄文時代の後期(4400年〜3300年前)に焼き畑による稲の栽培はすでに行われ、その後の地球規模の気候の寒冷化や大陸での文明の成立(紀元前 2000年頃)をきっかけに、広範囲で人口の流動が促され、水田を作る技術を持ち、鉄器や青銅器を揃え、堀を巡らして集落を作る人々が、半島から西日本に移り住むことこの新しい文化は、縄文時代の名残と共存し、融合しながらゆっくりと日本列島全体に広がっていった。そのような過程の中で作られた小国が分立する列島に、邪馬台国を中心とした連合ができるのが、弥生時代(紀元前1000年〜紀元3世紀)後期にあたる紀元3世紀初めとなる。ちなみにこの時代は中国では三国志の時代で「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが記載されていることは歴史の教科書で学ぶ。
三世紀後半には、半島や中国から鉄を調達できる強大な首長の権威を示すため、大きな墳丘が作られることになり、”街道をゆく – 芸備の道“に述べたように、半島に近く鉄の文化があった広島や島根に、そして大和朝廷の前身である大きな部族連合が形成されつつあった奈良盆地に巨大な前方後円墳が作られるようになり古墳時代(紀元三世紀〜七世紀)と呼ばれるようになる。
古墳の埋葬品にされたのは、鏡や豪奢な金銀の装飾品、甲冑、馬具、太刀、カットガラスなどかつての被葬者の身を飾った大陸からの渡来の品となっていた。そして、その眠りを守る墳丘は土を盛り、斜面を葺石で保護した上で、その周囲にさまざまな埴輪が置かれていた。
この時代のデザインは、縄文時代のようなエネルギッシュな文様がなくなり、簡素で洗練された実用性を重視した弥生土器と同様の特徴を持っている。
飛鳥・奈良時代の仏像
“仏教と経典と大乗仏教の宗派について“で述べている様に、紀元前6〜前5世紀にインドから発生した仏教では、当初、釈迦の像を持たなかったが、1世紀前半頃からガンダーラ地方などで、造仏が始まり、シルクロードを通じて後漢時代の中国、そして朝鮮半島へは4〜6世紀前半に順次伝来、6世紀半ばに日本にたどり着く。
ちょうどその頃、これまでの連合国家を構成する豪族の中から、実力で盟主の座を勝ち取ったものを大王(おおきみ)とし、その大王を中心にして構成された大和政権が、権力が世襲されていく王権へとしていった。(“街道をゆく – 竹内街道と古代日本“を参照のこと)
そして6世紀半ばに百済の国から釈迦如来の金剛像がもたらされる。像を見た当時の欽明天皇が「仏の相貌端厳し(仏像がギラギラ光って超やばい)」と評したと日本書紀にあるように、当初から仏像は信仰だけでなく 、最先端の文化や技術の産物として、鑑賞されるものとなっていた。
菩薩半跏思惟像(ぼさつはんかしゆいぞう) は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像となる。
国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。
デザイン的には、その後の世代の仏像デザインとは一線を画し、シルクロード的なオリエンタルデザインとなっている。
平安時代の仏像
平安時代は、日本の歴史で794年から1185年までの時期を指す。この時代は、日本の中世前期にあたり、平安京(現在の京都)が都として栄え、文化や芸術が隆盛した時期として知られている。
平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していたが、藤原氏による荘園の拡大の結果として、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末から10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。
王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄しており、その上、桓武天皇が軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し無政府状態に陥いり、16世紀(江戸幕府の時代)になるまで、日本列島には戦乱が頻発するようになった。
このような時代背景を受け更に、”南海トラフ地震”、「貞観津波」と呼ばれる東北地方を襲った”津波”、”富士登山の歴史と登山競走“にも述べている”富士山の噴火”、天然痘やはしかなどの疫病、旱魃や飢饉など様々な災厄に襲われるという「平安」とは裏腹な「不安」な時代となった。
このような”不安”に対して、救いを提供する手段として仏教が求められ、”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“で述べているような阿弥陀如来による救いや、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べられている大日如来による救いの教えが広まっていった。
如来とは、真理に到達した仏、あるいは悟りを開いた仏という意味で、如来になるために修行をしている仏が菩薩(ぼさつ)となる。如来にもさまざまな種類があるが、大日如来は空海が広めた「密教」において、宇宙の根源をなす中心的な仏として信仰された仏となる。
一般的に如来の像といえば、お椀をふせたような頭頂部、突起をならべたような頭髪、さっぱりとした薄い衣を身にまとう姿に表されるが、
大日如来だけは高いもとどりを結い、冠をかぶり、胸や腕に装飾を着けた姿で表される。これは通常、菩薩がとる装いとなる。 左右のひじを胸の前で曲げ、左手の人差し指を立てて右手の拳で包み込む独特のポーズと、菩薩の装いであることから、この像が大日如来であることがわかる。全体に細身で抑揚が少なく、穏やかな表情で、こうした特色は、日本の彫刻では11世紀から12世紀にかけて流行したスタイルとなる。
鎌倉時代の仏像
平安時代の末、平清盛が太政大臣の位に就き、権力を独占して新たな武家の勢力を確立させた。この平氏によって弾圧されたのが、当時強力な僧兵を持って敵対していた奈良の興福寺や東大寺で、これらの寺は壇ノ浦の戦いから遡ること5年の1180年に平清盛の命により焼失させられている。
“街道をゆく 三浦半島記“に述べられている平氏の滅亡とその後の鎌倉幕府の成立とともに、これらの焼失した寺の復興プロジェクトが起き、それまでの体躯は薄く衣の襞や陰影は浅めに彫られ、あたかも仏画から飛び出してきたような実在感のない姿から、運慶、快慶らによるダイナミックで厳かな力強い表情を持ち、様々な変化をつけた衣文、量感に富む力強い体躯が表された仏像となっていく。
運慶らによる十二神将立像
快慶による地蔵菩薩
鎌倉時代の仏像は、平安時代のものと比べるとより力強く、迫力のある表現が特徴的であり、平安時代の仏像は都市の寺を出て山中で修行する僧が、山中の滝や深い森などに触発されて、仏像の素材として、それ自体霊性を感じさせる木を選んで木彫り彫刻としたのに対して、鎌倉時代の仏像は銅や金属で作られることが一般的となっている。これは、鎌倉時代に仏教美術が発展し、新しい制作技術や材料が導入されたためで、前述の運慶や快慶もグループを組んでの制作が行われていた。
室町のアート
“禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“に述べている鎌倉仏教の登場で、仏教の教え自体は、それまでの貴族たちだけのものから、武士、庶民へと広まっていった。しかし新仏教は題目や名号を唱えるのが主体で、金や手間のかかる仏像や仏画を重要視しなかったこと、また禅宗の関心は人間の内面へと向かい仏像・仏画を必要としなくなったことから、この時代以降は仏像や仏画は発展を止めている。
そのため室町時代の仏像は、これまでと大きな違いはなく、鎌倉時代の様式を受け継いでより技巧的になった、といった感じになっていった。
それらに代わって存在感を示したのが水墨画で、
元々中国で水墨画が生まれたのは唐の時代ではあったが、それらが黄金期を迎える五代から北宋の時代に日本には伝わってきたが、雄大な山水画が、日本人の感性に合わなかったのか、日本絵画にそれほど影響を与えなかった。それらが日本に影響を与えたのは南宋、元、明の時代の水墨画でその頃輸入されていた青磁とともに、時の権力者である将軍家が権力を示すため、会所と呼ばれるバンケットルームを建て、そこでそれらの様々な芸術品を集めて展示していた。
会所と様々な美術品
そこで将軍家のコレクションの管理を担当し、センスよく見せるための取り合わせや飾り方のマニュアルを作り、新たに買い入れる作品の選定、立花や蓮歌、絵にも優れ、他家の依頼を受けて品物の価格まで決めていたのが、将軍家に父子3代にわたって仕えた「アートディレクター」の能阿弥・芸阿弥・相阿弥となる。
このような将軍家の在り方が、絵画・工芸品を飾る際に取り合わせや趣向を意識すること、また美術品の価値を「価格」量ることなど、現代まで通じる美術に対する価値観や姿勢を形作っていった。
安土・桃山時代のアート
その後の安土・桃山時代は、”街道をゆく 堺・紀州街道“で述べている様にアートの主体は財力のある商人に移り、煌びやかな絵画や工芸品が作られていく。
また、時代は大航海時代に入り、”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“で述べている様な南蛮(ヨーロッパ)の文化やキリスト教の影響も受けていく。
江戸時代のアートと仏像
江戸時代には、これまでの歴史の中で公家、武家と移ってきた文化の担い手の主体が町人になり、どの時代よりもバリエーションの多彩な江戸の美術を作り上げていった。江戸時代の代表的なアートといえば”浮世絵と新版画 – アートの世界の温故知新“に述べている浮世絵となる。
参勤交代で江戸に勤める単身赴任の地方武士、上方から江戸に出向してきた商売人たち、あるいは一旗揚げようと集まってきた有象無象な連中などを寄せ詰めた新興都市江戸に、ややこしい「伝統」はなく、大切なものは当世だけよ、ということで、上方で流行した肉筆の風俗画が江戸に伝わり、当世=浮世の風俗を描いていることから、いつか「浮世絵」と呼ばれる様になった。
また、江戸時代以降は寺の新築や修理を主に町人階級である檀家が担うことになったため、造像も増えていった。そこで、民衆と深く交わる在野の僧である円空が現れ、現存するだけでも5000体の仏像が彫られていった。
円空は「諸国を歩きながら12万体の仏像を刻もう」と誓願を立て、30年に渡り日本中を旅して、寺も仏像もないような小さな村々を訪れては、「困っている人たちを救おう」と、その土地で手に入る木を使って仏像を彫っていった。
円空は、普通の仏像彫刻とはかけ離れた彫り方をする。仏像を作る時には、普通、持ち物や姿を定めた規則があるが、円空はそれを無視して、抽象的に表現している。それは、木を見て、そこに仏を見出して、いらないところを削って作ったアプローチでもあり、その時その時によって表現の仕方が違うものとなっている。このような感覚的な彫り方をする仏師は、後にも先にも円空以外は現れていない。
明治以降のアート
明治に入り、日本は西洋的な近代化を急速に推し進めた。西洋美術の学習は、写実主義の技法を「技術」の一環として取り入れることとなっていった。江戸時代の仏師の流れをくむ高村光雲は、伝統的な木彫りの技術に写実主義を加えた鳥や動物の木彫作品で高い評価を得ている。
明治以降のアートに関しては”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“に改めて述べることとする。
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[…] 時の人々は、仏像たちが家に住んでいることにおどろいたのである。”日本のアートの歴史と仏像につにいて“にも述べている様に、釈迦が仏教を説いているころには、仏像などな […]