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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
今回の旅のスタートは2部に分かれる。最初の旅は、札幌の北海道開拓記念館から、まず網走に向い、網走観光ホテルに宿泊して、道立北方民族博物館、能取湖、サンゴ草の広がる卯原内、サロマ湖、モヨロ貝塚、網走市郷土博物館を尋ねる。第二部は札幌から特急列車で6時間の稚内へ、サロベツ原野を目にしつつ南稚内に到着。飲み屋を訪れ、水蛸のしゃぶしゃぶを堪能した後、抜海岬、納沙布岬、声岬と岬めぐりをして、宗谷丘陵を通って最北端の宗谷岬へ、間宮林蔵の碑を見て、北方40kmの樺太と韃靼大陸に想いを寄せる。猿払村、浜頓別、枝幸町とオホーツク海沿岸を南下し、目梨泊遺跡の発掘現場を訪ね、紋別市のオムサロ遺跡公園、オホーツク流氷科学センターをめぐってから網走へ、小清水、斜里町を経て旅の最終地である知床半島に向かう。
縄文時代は、日本の先史時代の時期で、おおよそ紀元前14,000年から紀元前300年頃まで続いた期間とされている。縄文という名前は、以下のような特徴的な土器(縄文土器)が多く出土したことから名付けられた。
この縄のような線が複雑に絡んだ土器は、食料貯蔵や煮炊きのための器として用いられ、壺の口を取り巻いて火炎が上っているように見えることから、火焔土器とも呼ばれているものとなる。また、遮光器土偶と呼ばれる女性像も作られていたことでも有名な時代となる。
日本の現代美術家であり、彫刻家、画家、デザイナー、作家としても有名な岡本太郎は、
このような縄文時代の動きのある立体的な造形に注目し、それらをベースに多くの美術作品を作り出した。1964年に開催された東京オリンピックのメダルデザインや、1970年に開催された大阪万国博覧会での太陽の塔、
あるいは最近だと、改築されたJR線渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅を結ぶ連絡通路(マークシティ内)に展示されている巨大な壁画(長さ30メートル、高さ5.5メートル)である「明日の神話」などダイナミックな作品が今でも残されている。
縄文時代は、狩猟・採集の生活を営む狩猟採集民族の社会が主であり、農耕や都市の形成は後の時代に中国の南部から朝鮮を通じて伝わってきたと言われている弥生時代になるまで行われていなかった。縄文時代の人々は、自然環境に順応した生活を送り、現在に残る遺跡としては木造の竪穴住居や貝塚(かいづか)と呼ばれるものがある。縄文は異なる観点を持った文化として現在でも再評価されている。
この縄文の文化を色濃く残し、さらに北方樺太やカムチャッカ半島の影響を受けていた文化が「アイヌ文化」となる。アイヌ文化は北海道にウポポイ(民族共生象徴空間)が作られ、近年再注目を浴びている。
北海道のオホーツク沿岸は、このようなアイヌ文化に影響を与えた北方の「オホーツク文化」の痕跡「モヨロ遺跡」が残っている場所となる。
モヨロ遺跡は、縄文時代後期(約4,000年前から約2,300年前)に栄えた集落跡であり、1970年代に米村喜男衛という地元のアマチュア考古学者により発見され、発掘調査が行われ、多くの遺物や遺構が発見されたという、トロイ遺跡を発見したシュリーマンと重なるストーリーを持つ遺跡となる。
米村は東京神田小川町の理髪店で働いていた。”街道をゆく 神田界隈“でも述べているように神田は古本の街であり、時間があれば本を見て歩き、考古学系の図書を読んだり、考古学会や人類学会の会報に貝塚や遺跡の研究報告会の予告が入ると何をおいても参加していたらしい。そのような中で、日本における人類学・考古学の大家である東大人類学教室の鳥居龍蔵博士との知遇を得て、人類学教室への出入りを許され、様々な考古学的知識に対する教えを受けていた。
そのような中で、米村は鳥居が書いた「千島アイヌ」という本を神田の古本屋でみつけ、その本に書かれていたアイヌ文化に興味を持ち、それを研究しようとして東京を引き払い、北海道に渡った。
函館に着いたが十九歳で、二年函館で過ごし、二十一歳の時に当時奥地だった網走(函館から二泊三日かかっていた)に向かった。網走駅につき、駅前の宿に泊まり、翌朝網走川の河口に向かって散歩していたところ、その河口に高さ二、三十メートルの砂丘があり、川に向かって急断面をなし、その断面いっぱいに貝塚層が露出していたのを発見した。
その中には土器片や石器も混じっており、土器を見てみると、これまで見てきた縄文土器とは全く違ったものであり、さらに砂丘の上を歩きまわると、古代の住居跡である深くて大きな竪穴を数十箇所発見した。米村はここで圧倒されるような異様さを感じ、網走定住を決意してここに引っ越し、駅前のあばらやを改装して「バーバーショップ」と看板をつけた床屋を開店し、その傍ら発掘作業を進めた。
ここで出土した出土品置き場が、のちのモヨロ貝塚館や網走市立郷土博物館へとなっていく。
モヨロ遺跡は、その大きさと保存状態の良さから、現在でも、日本国内外で注目を集めているものとなり、遺跡の中心部には、円形の竪穴建物や溝状の遺構、貝塚などがあり、これらの遺構から、当時の住居や生活様式、食生活などについての情報を得ている。
この遺跡からは土器や石器、木器など、さまざまな遺物も出土している。その中で特に注目されるのは、縄文時代後期特有の「モヨロ式土器」となる。これは、細かい模様や装飾が施された特徴的な形状を持つ土器であり、モヨロ遺跡で初めて発見されたことからその名前がつけられた。
モヨロ遺跡は、縄文時代後期の文化や社会の理解に貢献する重要な遺跡であり、また、遺跡周辺の地域は、モヨロ遺跡を中心とした考古学的景観として整備され、観光地としても人気がある。そこでは遺跡公園や展示施設が設けられ、一般の人々も縄文時代の文化に触れることができるようになっている。
次回の旅は、熊野古道と古座街道、和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町週参見から古座川沿いの雫の滝、真砂、一枚岩、明神の川集宿、潜水橋、河内神社を通り古座に抜ける旅について述べる。
コメント
[…] 街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語 […]
[…] “街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語“でも述べている縄文文化の代表的な造形物として土偶がある。 […]
[…] 取湖、サンゴ草の広がる卯原内、サロマ湖、モヨロ貝塚、網走市郷土博物館を尋ねている。モヨロ遺跡に関しては”街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語“を参照のこと。 […]
[…] 前回は、北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅について述べた。今回の旅は、熊野古道と古座街道、和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町周参見から […]
[…] 次回は北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅について述べる。 […]
[…] その後鎌倉幕府によって滅ぼされ、鎌倉幕府によって派遣された安東氏によって津軽半島北西部の十三湖の西岸に十三湊(とさみなと)が作られ、明確な中央の統治が始まる。この十三湊は”街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語“で述べられている北方の民族や、”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“で述べられている日本海航路の拠点として、室町時代期では栄えていた。 […]