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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
旅のルートは福岡から、飛行機で福岡空港に入り、蒙古襲来(元寇)に思いを馳せながら、今津の元寇防塁、蒙古塚を尋ねる。虹の松原を通り、海人の松浦党に思いをめぐらして呼子、外津へ。唐津に泊まったのち、平戸口からフェリーで平戸島に渡り、平戸城、オランダ商館跡、ザビエルの碑、松浦史料博物館、印山寺屋敷跡、三浦按針埋骨碑などをめぐり、大航海時代のオランダや英国、ポルトガルについ考える。再びフェリーで平戸口へ戻り、佐世保に宿泊。平戸を出たポルトガル人の足跡を追って横瀬浦に向かい、大村湾沿いに長崎まで南下して宿泊。福田浦、トードス・オス・サントス協会跡地に立つ春徳寺、長崎氏の居城跡を訪れ、ポルトガル領だった時代の長崎を想う。
福岡空港は福岡の街の中にある国内の空港の中でも珍しい部類の空港となる。
その福岡空港に降り立った司馬遼太郎等はまず「蒙古塚」に向かう。福岡は今から900年ほど昔の鎌倉時代に、当時ヨーロッパまで侵略していた元のクビライ・ハンによって二度に渡って攻め込まれた場所となる(二度とも台風(神風)によって救われたとある)。蒙古襲来の話は様々な小説や映画などの題材とされており、例えば”街道をゆく – 陸奥のみち“で述べた東北大河シリーズを書いている高橋 克彦による「時宗」は時の執権である北条時宗の観点からこの元寇について述べられている。
また元寇そのものを題材としたものだと「アンゴルモア元寇合戦記」シリーズもマンガではあるが、対馬への襲来から福岡での合戦を実際に戦っていた鎌倉武士の視点から描かれておりお勧めの作品となる。
博多から西に少し向かった生の松原海岸森林公園にこの元寇防塁は残されている。
そこから、さらに西に向かい唐津街道(国道202号戦)を通って、佐賀県の唐津市を通り、唐津名物の小ぶりながら美味しそうな松露饅頭を買う。
次に日本三大松原と呼ばれている虹の松原を抜け、沿岸沿いに長崎県に入る。
長崎に入り最初に向かった場所は松浦市となる。ここは古代より松浦党と呼ばれる水軍集団の拠点となっていた場所で、源平合戦や元寇の際にも活躍し、元寇後は海外貿易やときには海賊も働いていたという遠洋冒険の一族であったらしい。そのため多くの作家の想像力を刺激し、わずか6万石で歴史上でも大きな役割を果たしてはいなかったにもかかわらず、さまざまな歴史小説に登場している士族となる。
例えば風野 真知雄による「妻は、くノ一」はこの松浦平戸藩出身の武士が、江戸に出て幕府の陰謀にかかわるというフィクションとなっている。
この「くノ一」という言葉は日本語の漢字「女」を分解したもので、女忍者のことを指す。平戸藩を潰そうとする幕府の陰謀に巻き込まれたうだつの上がらぬ平戸藩士と、幕府の手先であった女忍者が恋に落ち、抜け忍となったところに、刺客が次々と送り込まれ、凄腕の剣士木である平戸藩主と平戸藩の忍者との戦いになるというエンターテイメント性が高い小説であり、2013〜2014年にはNHKでドラマ化も行われている。
更に沿岸を西に進むと平戸島に辿り着く。この島は中国やポルトガル、オランダなどの海外との貿易の拠点となっていた場所であり、”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“でも述べたフランシスコ・ザビエルが最初に拠点として、ポルトガル商館が建てられた場所でもある。
ポルトガルとスペインは共にカトリック系であり、教会のシステム(神の世界)が第一であった為、宗教と貿易とが一体となっていた。そのため、思想的な侵略という観点から時の支配者である豊臣秀吉や徳川家康は拒絶していくこととなる。それに対して、オランダ人と英国人はプロテスタント系であり、協会のシステムではなく個人の努力による信仰を指向していたため、貿易と宗教が分離されており、日本の支配者達も許容できたため、最終的にはオランダ人と英国人が日本に残ることとなる。(さらに1580年代のポルトガルのスペインによる併合や、イギリスによるスペインの無敵艦隊の壊滅によりスペイン/ポルトガルが外に向かう力を失っていったことも影響している)
ここで1630年代後半に”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べた島原・天草の乱が起き、国内のキリスト教徒は危険な反乱分子とみなされるようになる。それらを受けて時の将軍徳川家光は鎖国体制を強化することになり、海外との貿易拠点は長崎の出島のみとなり、平戸の商館はすべて閉鎖されることとなった。
ポルトガル人やオランダ人が平戸にいた時期と同時期に平戸に居を構えていた海洋人が王直となる。王直は明の出身で、元々貿易商であったものが、明の海禁政策をかいくぐった密貿易に進み、更に海賊(倭寇)となって、拠点を平戸に構え、沿岸地方を荒らしていた人物となる。平戸にはこの王直の銅像と住居跡もある。
このように江戸初期まで、平戸は海外に開かれた国際的な街であったらしい。平戸の他には、佐世保の横瀬浦と長崎の福田浦にもポルトガル人の居住区があったが、それらも破棄され、福田浦から長崎湾の奥地に進み、現在の長崎が発見されたとのこと。その頃の長崎は何もない草深い海岸であったらしい。
長崎はポルトガル人により「ドン・パルトロメオの港」と呼ばれ、当時のヨーロッパと繋がった国際都市になっていった。そのような開かれた世界も、幕府の鎖国態勢と共に、長崎/出島の限られた空間に閉じ込められていくこととなる。
コメント
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