街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第11巻 備前の諸道

前回本郷について述べた。今回は九州肥前の島々(唐津平戸佐世保長崎)をたどり、大航海時代オランダ英国ポルトガルとの南蛮貿易の跡を巡る旅について述べる。

旅のルートは福岡から、飛行機で福岡空港に入り、蒙古襲来(元寇)に思いを馳せながら、今津元寇防塁蒙古塚を尋ねる。虹の松原を通り、海人の松浦党に思いをめぐらして呼子外津へ。唐津に泊まったのち、平戸口からフェリーで平戸島に渡り、平戸城オランダ商館跡、ザビエルの碑松浦史料博物館印山寺屋敷跡三浦按針埋骨碑などをめぐり、大航海時代オランダ英国ポルトガルについ考える。再びフェリーで平戸口へ戻り、佐世保に宿泊。平戸を出たポルトガル人の足跡を追って横瀬浦に向かい、大村湾沿いに長崎まで南下して宿泊。福田浦トードス・オス・サントス協会跡地に立つ春徳寺長崎氏の居城跡を訪れ、ポルトガル領だった時代の長崎を想う。

福岡空港福岡の街の中にある国内の空港の中でも珍しい部類の空港となる。

その福岡空港に降り立った司馬遼太郎等はまず「蒙古塚」に向かう。福岡は今から900年ほど昔の鎌倉時代に、当時ヨーロッパまで侵略していたクビライ・ハンによって二度に渡って攻め込まれた場所となる(二度とも台風(神風)によって救われたとある)。蒙古襲来の話は様々な小説や映画などの題材とされており、例えば”街道をゆく – 陸奥のみち“で述べた東北大河シリーズを書いている高橋 克彦による「時宗」は時の執権である北条時宗の観点からこの元寇について述べられている。

また元寇そのものを題材としたものだと「アンゴルモア元寇合戦記」シリーズもマンガではあるが、対馬への襲来から福岡での合戦を実際に戦っていた鎌倉武士の視点から描かれておりお勧めの作品となる。

博多から西に少し向かった生の松原海岸森林公園にこの元寇防塁は残されている。

そこから、さらに西に向かい唐津街道(国道202号戦)を通って、佐賀県の唐津市を通り、唐津名物の小ぶりながら美味しそうな松露饅頭を買う。

次に日本三大松原と呼ばれている虹の松原を抜け、沿岸沿いに長崎県に入る。

長崎に入り最初に向かった場所は松浦市となる。ここは古代より松浦党と呼ばれる水軍集団の拠点となっていた場所で、源平合戦元寇の際にも活躍し、元寇後は海外貿易やときには海賊も働いていたという遠洋冒険の一族であったらしい。そのため多くの作家の想像力を刺激し、わずか6万石で歴史上でも大きな役割を果たしてはいなかったにもかかわらず、さまざまな歴史小説に登場している士族となる。

例えば風野 真知雄による「妻は、くノ一」はこの松浦平戸藩出身の武士が、江戸に出て幕府の陰謀にかかわるというフィクションとなっている。

この「くノ一」という言葉は日本語の漢字「女」を分解したもので、女忍者のことを指す。平戸藩を潰そうとする幕府の陰謀に巻き込まれたうだつの上がらぬ平戸藩士と、幕府の手先であった女忍者が恋に落ち、抜け忍となったところに、刺客が次々と送り込まれ、凄腕の剣士木である平戸藩主と平戸藩の忍者との戦いになるというエンターテイメント性が高い小説であり、2013〜2014年にはNHKでドラマ化も行われている。

更に沿岸を西に進むと平戸島に辿り着く。この島は中国やポルトガルオランダなどの海外との貿易の拠点となっていた場所であり、”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“でも述べたフランシスコ・ザビエルが最初に拠点として、ポルトガル商館が建てられた場所でもある。

ポルトガルスペインは共にカトリック系であり、教会のシステム(神の世界)が第一であった為、宗教と貿易とが一体となっていた。そのため、思想的な侵略という観点から時の支配者である豊臣秀吉徳川家康は拒絶していくこととなる。それに対して、オランダ人と英国人はプロテスタント系であり、協会のシステムではなく個人の努力による信仰を指向していたため、貿易と宗教が分離されており、日本の支配者達も許容できたため、最終的にはオランダ人と英国人が日本に残ることとなる。(さらに1580年代のポルトガルスペインによる併合や、イギリスによるスペイン無敵艦隊の壊滅によりスペイン/ポルトガルが外に向かう力を失っていったことも影響している)

ここで1630年代後半に”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べた島原・天草の乱が起き、国内のキリスト教徒は危険な反乱分子とみなされるようになる。それらを受けて時の将軍徳川家光鎖国体制を強化することになり、海外との貿易拠点は長崎の出島のみとなり、平戸の商館はすべて閉鎖されることとなった。

ポルトガル人やオランダ人が平戸にいた時期と同時期に平戸に居を構えていた海洋人が王直となる。王直の出身で、元々貿易商であったものが、の海禁政策をかいくぐった密貿易に進み、更に海賊(倭寇)となって、拠点を平戸に構え、沿岸地方を荒らしていた人物となる。平戸にはこの王直の銅像と住居跡もある。

このように江戸初期まで、平戸は海外に開かれた国際的な街であったらしい。平戸の他には、佐世保横瀬浦長崎福田浦にもポルトガル人の居住区があったが、それらも破棄され、福田浦から長崎湾の奥地に進み、現在の長崎が発見されたとのこと。その頃の長崎は何もない草深い海岸であったらしい。

長崎ポルトガル人により「ドン・パルトロメオの港」と呼ばれ、当時のヨーロッパと繋がった国際都市になっていった。そのような開かれた世界も、幕府の鎖国態勢と共に、長崎/出島の限られた空間に閉じ込められていくこととなる。

次回ニコライ堂神田明神神田神保町古書店街を訪れ、森鴎外夏目漱石らこの街に住み関わった人の足跡を訪ね歩く。

コメント

  1. […] 八幡宮は十二世紀には、清和源氏の氏神となり、その家系の”街道をゆく – 三浦半島記“にも述べている源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、諸国の武士たちが八幡をまつるようになって大いに流行した。”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“に述べている十四世紀の倭寇もこの神を崇拝し、船ごとに「八幡大菩薩」と墨書した旗をたてたことから、明代の中国人は、これを八幡船(ばはんせん)と読んでいた。 […]

  2. […] “街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べているように、このスペイン・ポルトガルからの代替わりは日本でも起こり、当初鉄砲を伝来し、日本と交易をしていた […]

  3. […] また、鎌倉時代には”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べているモンゴル帝国とその属国となった高麗による2回の侵攻(元寇)を受け、当時の壱岐の守護代であ […]

  4. […] “街道をゆく オランダ紀行“や”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“で述べているように、17世のオランダは世界貿易や、都市向け園芸農業(チューリップ等)、 […]

  5. […] 街道をゆく第36巻より。 前回は九州の肥前の島々(唐津・平戸・佐世保・長崎)をたどり、大航海時代のオランダや英国、ポルトガルとの南蛮貿易の跡を巡る旅について述べた。今回はニコライ堂、神田明神、神田神保町の古書店街を訪れ、森鴎外、夏目漱石らこの街に住み関わった人の足跡を訪ね歩く。 […]

  6. […] 鄭 成功(てい せいこう、チェン・チェンコン)は、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“で述べている平戸で、明国人である父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生 […]

  7. […] 日本人がモンゴルと聞くとまず思い浮かべるのが、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている大元帝国による九州への侵攻(元寇)となる。これは鎌倉時代の12 […]

  8. […] 高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入り、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている元寇では、元の尖兵となって日本とも戦っている。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。 […]

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