街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道をゆく22巻23巻より。 前回羽州街道山形の道について述べた。今回はフランス/スペイン/ポルトガルを巡る旅となる。戦国時代に日本を訪れ大きな影響を及ぼした南蛮人であるフランシスコ・ザビエルの足跡を辿り、フランスのパリからスペインバスク地方まで訪ね、次に戦国時代の日本人から南蛮と呼ばれた国、スペインポルトガルを訪れる旅となる。

街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“でも述べているフランシスコ・ザビエルは、バスク人であり、スペインのナバラ王国の一城主の子でもあり、カトリック教会の司祭で、宣教師、かつイエズス会の創設メンバーの1人となる。

 彼は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。ザビエルが日本を訪れたのは”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“で述べた種子島への鉄砲伝来から6年後となる。

この南蛮からの鉄砲やキリスト教の伝来は、それらだけではなく好奇心旺盛な日本という島国に有形無形の影響を残している。それらは例えば戦国武将が好んで着ているラシャの陣羽織であったり

また鎧兜においても、スペイン風の甲冑の影響を受けているものが作られている。

フランシスコ・ザビエルは今日の国別で言えばスペイン人ということになるが、当時はピレネー山脈のふもとにあったナバラ王国の一城主の子として生まれ、民族的な所属を厳密にいうと、バスク人ということになる。

バスク地方は、ピレネー山脈の両側に位置し、スペインフランスの両側にそれぞれスペインバスクフランスバスクに分かれ、ビルバオやサンセバスチャンなどの代表的な都市を持ち、スペインにおいて強力な自治権が認められている地方となる。

バスク人の定義はアバウトで、”バスク地方生まれかバスク地方在住であり、非バスク人であると自己定義していない人物”か”非バスク地方生まれだが、バスク語を話すことができるか、バスク民族であると自己定義している人物”となる。ヨーロッパでは、バスク語の難しさは有名であり、悪魔が、バスクの娘を誑かそうとしてバスクのくにに7年間滞在したが、覚えられたバスク語は「はい」Bai と「いいえ」Ez だけだった、というジョークや、バスク語は、ネアンデルタール人 Homo neanderthalensis の言語だ、というジョークもある。

実際のところ、バスク語はインド・ヨーロッパ語の海の中に浮かぶ孤島であって、系統的に類似した言語は存在しない。バスク語は、3000年におよぶ印欧語化の波に抵抗して生き残った、西欧における唯一の前印欧語的言語なのである。

一体どこがどう難しいのか、というと、その特異性は、能格構文と多人称性にある。(もっとも、似たような特徴をもつ言語は実は世界には沢山あって、メジャー言語の中にそれがないのは単なる偶然である。)

能格構文というのは、目的語として主格が置かれ、主語として能格が置かれるような文のことである。

1. Aita irakaskea da. 父は教師だ。
2. Aitak etxea du. 父は家をもっている。

ここで、主語はどちらも「父」Aitaであるのに、1(自動詞の主語)では主格であり、2(他動詞の主語)では能格Aitakとなっている。daは「〜だ」である(例:Kori bakkarik da. こればっかりだ。)。
duは「もつ」ukanの目的語が3人称単数の場合の直説法現在3人称単数形である(下記参照)。

日本語でも、例えば「私は妹をもっている」という代わりに「私には妹がいる」となって「妹」が主格になるのと何となく似ている。ただし、バスク語ではあらゆる他動詞に対して、目的語は主格となる。
ちなみに、バスク語には格が13個もある。

問題は多人称性であって、これは、おそらく目的語が文の主役であるような性質と分かちがたく結びついている。普通のヨーロッパ語では、動詞が、主語の人称に応じて変化する。多人称性とは、動詞が、主語だけでなく目的語の人称によっても変化するという恐るべき現象である。

Hi maite haut. 私はきみをを愛する。
Hik ni maite nauk. きみは私を愛する。
Hik ni maite naun. きみ(女性)は私を愛する。
Nik zu maite zaitut. 私はあなたを愛する。
Nikzuek maite zaituztet. 私はあなたたちを愛する。
Hik naska maite duk. きみ(男)は少女を愛する。
Hik mutila maite dun. きみ(女)は少年を愛する。

maiteは「愛」であり、haut, nauk, naun, zaitut, zaituztet, duk, dunは「もつ」ukanが主語と目的語の人称に応じて(原型を留めないほどに)変化したものである。
目的語の人称標識(N, H, D, …)は語頭に来て、主語の人称標識(-t, -k, -n, -0)は語末に来る。主語と目的語がそれぞれ 私、きみ、彼(彼女)、私たち、あなた、あなたたち、彼ら、であるのに応じて7通りの変化があるから、一つの動詞が49通りに変化することになる。

しかし、話はこれだけでは終わらない。「与える」という動詞に至っては、「誰が」「何を」「誰に」という3つの人称を動詞に組み込まなければならない。「彼は私にそれを与える」なら ematen dit、「私はあなたにそれを与える」なら ematen dizut、「あなたは私にそれらを与える」なら ematen dizkidazu、という具合(「誰に」の人称標識は語の中央(!)に組み込まれる)。つまり、73 = 343通りもの華麗な変化を遂げるのである。
以上に加えて、過去・半過去・現在完了・未来などの時制と、命令法・可能法・条件法・接続法などの法による活用もある。それらの組み合わせを全て考慮すると、一体一つの動詞が何通りに変化するのか大変なこととなる。

我々の生活に近いバスクとしては、ベレエ帽やバスクチーズケーキ等がある。ベレー帽は、軟らかく丸くて平らな、鍔や縁のない帽子である。ウールフェルト等で作られたものとなる。

鍔や縁のない被り物は、青銅器時代には使用されていたとされ、今日でも用いられる正統的なベレー(バスク・ベレー)の原型は、中世以前、古代ローマ時代からフランスベアルン地方で、日よけ・風よけなどの実用品として被られていたものが、同じピレネー山脈スペインフランス国境のバスク地方でも広く使われるようになり、さらに貴族や都市住民、農民やランツクネヒトによっても用いられるようになったものとされる。のちにバスク地方を訪れたナポレオン3世が「ベレー・バスク」と呼んだことから、同地方の帽子として、フランススペイン、イタリアをはじめ世界中に広まったことが知られている。

バスクチーズケーキ、あるいはバスク風チーズケーキとは、外側を黒く焦がした濃厚な風味のあるチーズケーキとなる。

このケーキは、スペインサン・セバスティアンにある料理店ラ・ビーニャ(La Viña)のレシピをもとにしたベイクドチーズケーキで、バスク地方では「バスクチーズケーキ」にあたる名称では流通していない。日本では2018年頃からバスクチーズケーキという名称で知られるようになり、コンビニはじめ様々な店舗で売られているものとなる。

フランシスコザビエルの足跡を追い、フランスのカルチェ・ラタンから始まった旅は

ピレネー山脈を超え、ザビエルの生家であるハビエル城を経由して

リゾート地としても有名なサンセバスチャンにて終える。

次回は引き続き南蛮のみちとして、スペイン/ポルトガルを巡る旅について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく22巻23巻より。 前回は、戦国時代に日本を訪れ大きな影響を及ぼした南蛮人であるフランシスコ・ザビエルの足跡を辿り、フランスのパリからスペインのバスク地方まで訪ね […]

  2. […] 当時日本との交易に携わっていたのは”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“でも述べているようにカトリック教会を背景としたポルトガル人であった。家康は彼 […]

  3. […] 次回はフランス/スペイン/ポルトガルを巡る旅となる。 […]

  4. […] その後”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“で述べているスペイン人が台湾北部に入っている。最初に台湾の領有を宣言したのは”街道をゆく オランダ紀 […]

  5. […] モンゴル紀行“にて、ピレネー山脈に関しては”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“、”街道をゆく 南蛮のみち(2) […]

  6. […] さらに時代が進み、”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“や”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べているルネッサンスの時代(14世紀から17世紀)には、複数の旋律が同時に進行するポリフォニースタイルが確立され、楽曲の表現力が増した。それらに伴い楽器のバリエーションも増え、特にリュートやオルガンが広まり、演奏技術が向上していった。また、活版印刷術の発明により、楽譜が広まり、音楽の技術やスタイルがヨーロッパ全土に広がるようにもなっていった。 […]

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