西田幾太郎の善の研究
西田幾太郎は、20世紀初頭に活躍し、倫理学、宗教哲学、そして心の哲学に焦点を当てた日本の哲学者となる。西田は、善についての研究を行い、その研究は日本哲学の中でも重要な位置を占めた。
善とは、一般的には「良い」「正しい」「価値ある」といった意味を持ち、倫理的な観点から見ると、善は人間や社会にとって望ましいものであり、悪とはその反対で、人間や社会にとって害を与えるものだと考えられている。
しかし、善については、倫理学的な解釈だけではなく、宗教的、哲学的な解釈も存在する。
善の宗教的解釈は、宗教や倫理の文脈において、善とされる行為や価値についての考え方を指し、異なる宗教や哲学的伝統は、善に関する異なる理解を持つ場合があるが、いくつかの一般的な考え方も存在している。
一つの宗教的解釈は、宗教の教えや神聖な文書に基づいて善を定義したものとなる。これによれば、神や神性の存在が善の基準となり、たとえば、キリスト教においては、聖書に示された神の教えや十戒に基づいて、善とされる行為や価値が定められている。他の宗教でも同様に、神や神聖な教えが道徳的な指針とされる。
また、善の宗教的解釈は、他者への思いやりや利他的な行為を重視する立場も存在する。この考え方では、善は他者への奉仕や愛、共感を通じて現れるものとされる。この利他的な善の代表的なものが仏教の教えであり、例えば、様々な仏教の経典において、慈悲や思いやりの実践が善の重要な要素と定義されている。
さらに、善の宗教的解釈は、道徳的な美徳や良い品性の培養に関連付けられることもある。この観点では、個人の内面的な変容や成長が善の追求の中心とされ、たとえば、ヒンドゥー教や仏教では、道徳的な価値観の育成や個人の精神的な浄化が重視されている。
善の哲学的解釈は宗教的な解釈とは異なり、宗教的な教えや神聖な文書に基づくのではなく、理性や倫理的な原則に基づいて善を定義するものとなる。これらは以下に示すような解釈がある。
- 義務論的な解釈: カントなどの義務論的な倫理学者によれば、善は道徳的な義務を遵守することによって達成されると解釈されており、個人は普遍的な法則に基づいて行動し、他者を尊重し、道徳的な責任を果たすことによって善を実現するとされている。
- 功利主義的な解釈: 功利主義の哲学者、例えばベンサムやミルによれば、善は幸福や快楽の最大化を追求することによって達成されるとされている。行為や価値はその結果や影響に基づいて評価され、幸福や利益をもたらす行為が善とされる。
- 美徳倫理学的な解釈: アリストテレスなどの美徳倫理学者によれば、善は美徳の発展や良い品性の実践によって達成されるとされている。個人は美徳を獲得し、優れた人間性を追求することによって善を実現し、美徳には勇気、節制、正義、思慮深さなどが含まれる。
- 個人の幸福と調和の解釈: 一部の哲学者や思想家によれば、善は個人の幸福と調和の状態によって達成されるとされている。この解釈では個人が自己の目標や望みに基づいて充実した生活を送り、心身のバランスを保つことが善とされている。
このように様々な解釈がある善という概念に対して、西田の善の概念は、近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとしたものになっている。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開している。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。
彼の倫理学は、日本の伝統的な価値観や仏教の影響を受けており、他者との関係や相互依存を重視している。他者超越論倫理学では、他者を受容し、他者の幸福や利益を追求することによって、個人自身の成長や善の実現が可能となると考えられている。西田の善の考え方は、単なる自己中心的な利益追求や欲望の充足にとどまらず、他者とのつながりや社会的な関係を通じて善を実現することを強調している。他者超越論倫理学は、個人の行動や社会のあり方を倫理的な視点から考察し、共同体の発展と共に善を追求することを目指している。
このように様々な解釈がある善という概念に対して、西田の善の概念は、「他者超越」という概念に根ざしており、彼によれば、個人の生き方や行動は他者に依存しており、他者の存在を超えた価値や意味を実現することによって善が成り立つとしている。西田は、自己の完全な自己実現や利益追求よりも、他者への奉仕や共感、他者を受容することが真の善を実現する道であると主張していた。
西田は、善とは単なる倫理的な規範や道徳的な原則ではなく、人間の内面にある倫理的な根源であると考え、善は人間の内面にある「感性」によって感じられるものであり、それは普遍的なものであると主張した。彼は、そのような「感性」は、倫理的な価値や観念を超越した「純粋経験」であり、人間はこのような純粋経験を通じて、自己を超越し、宇宙の全体性とつながっているとも考えていた。
近代の西洋哲学が確立させた、認識する主体/認識される客体という二元論に現れる主体と客体は抽象化の産物にすぎず、実際に我々にもともと与えらえた直接的な経験には、主体も客体もない。これは例えば、我々が音楽に聞き入っているときには、「主体」が「対象としての音楽」を把握しているのではなく、主客未分の純粋な経験がまず根源にあるのであり、そこからさまざまな判断や抽象化を経て、主/客の図式ができあがると彼は考えていたのである。
この立場から世界を見つめなおすと、「善/悪」「一/多」「愛/知」「生/死」といった様々なに二項対立は、一見矛盾しているようにみえて、実は「一なるもの」の側面であり、「働き」であり、「純粋経験」とはその働きであると言い換えることもできる。
このような考え方は”特別講義「ソクラテスの弁明」より「対話することの意義」“でも述べられているフッサールの現象論に近いと考えることができる。
西田の善に関する研究は、日本の伝統的な倫理や哲学を再検討する上で非常に重要なものであり、現代の倫理学や心の哲学にも影響を与えたものとなっている。NHK100分de名著の「西田幾多郎 『善の研究』) ではこのような難解な西田幾多郎 の『善の研究』を紐解いた良著となっている。
本書では以下のような章立てでこれらについて述べられている。
第一章 生きることの「問い」 認識する主体/認識される対象という二元論によって構築されてきた西洋哲学。 それを乗り超えるために格闘してきた西田幾多郎は、「愛」という独自の概念で、 「知」のあり方を根本から問い直す。冷たく対象を突き放すのではなく、あえて 対象に飛び込み没入していくことで対象の本質をつかみとる作用を「愛」と呼び、 「知」の中にその作用を取り戻そうというのだ。第一回は、西洋近代哲学の限界を 乗り超え、「知」の新たな形を追求した西田幾多郎の奥深い思索に迫っていく。 第二章 「善」とは何か 旧来多くの倫理学は、善と悪を外在的な基準から位置づけ判断してきた。 しかし、西田が東洋思想から練り上げていった独自の哲学では、善は人間の中に 「可能性」として伏在しており、いかにしてそれを開花させていくかが重要である という。そのためには、主体/客体という敷居を超えて、「他者のことを我が こととしてとらえる」視座が必要であり、真にその境地に立てたときに、「人格」が 実現される。それこそが善なのである。第二回は、西田がこの著作の根本に 据えた「善とは何か」という問いに迫っていく。 第三章 「純粋経験」と「実在」 「愛」や「善」といった概念を、主観と客観に二分しない独自の思考法から再定義していく西田哲学。 その根幹を支えるのが「純粋経験」という特異な概念だ。たとえば、音楽を聴くという体験は 音源から伝わる空気の振動を感覚器官がとらえるという物質過程ではなく、主体も客体も 分離される以前のあるがままの経験が何にも先立って存在する。これを「純粋経験」という。 この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」とみなしてきたものは、単なる抽象的な 物体ではなく、世界の根底でうごめている「一なるもの」の「働き」としてとらえ直されるという。 第三回は、合理主義的な思考では排除されてきた人間本 来の豊かな経験を取り戻すために、 「純粋経験」や「実在」といった西田独自の概念を読み解いていく。 第四章 「生」と「死」を超えて 「善の研究」をベースにして西田はさらに自らの哲学を発展させてゆく。 そんな彼が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だった。 主観と客観、善と悪、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり、 根源においては同一であるというこの考え方は、自らの子供と死別するという 実体験を通して獲得したものだと若松さんはいう。生と死は一見矛盾しながらも、 その対立を超えて一つにつながっているものだという西田の直観がこの思想を 生んだのだ。第四回は、西田哲学の中で最も難解とされる「絶対矛盾的自己同一」 という概念を解きほぐし、人間にとっての生と死の深い意味や、矛盾対立を超える叡知を学ぶ。
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