街道をゆく 羽州街道-山形の道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第10巻羽州街道

前回檮原(ゆすはら)街道坂本龍馬ら幕末の志士たちが土佐から伊予へ脱藩した道筋を巡る旅であった。今回は羽州街道山形の道となる。司馬遼太郎は、芭蕉の名句である「五月雨をあつめて早し最上川」に謳われた最上川の情景を確かめるべく、山形を訪ねる。山形では、奥羽街道を縦断するコースとなる。スタートは天台宗の古刹、立石寺から始まり、山形市郊外の紅花農家に立ち寄り、米沢市西南の小野川温泉に泊まる。翌日は、上杉神社林泉寺など、上杉氏ゆかりの旧跡を訪ね、その後最上川を白鷹町荒砥で眺めた後、上山温泉で泊まり、翌日山形市内に入る。

山形県は、東北地方に属し、新潟、宮城、秋田に囲まれた大和温泉、寺院で知られた場所となる。宮城県との境にある蔵王スキー場では、針葉樹が雪に覆われて「スノーモンスター」と呼ばれる樹氷が作られることでも有名な場所となる。

今回の旅は、9世紀に建てられた宝珠山立石寺(りっしゃくじ)」から。ここは、「山寺」の通称で知られ、奇岩怪石からなる山全体が修行と信仰の場になっており、登山口から大仏殿のある奥之院まで1時間ほどの道のりのそこかしこに、絶佳の景観が広が流場所となる。

また、 俳聖・松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の名句を紀行文「おくのほそ道」に残したことでも知られている。

立石寺を開山したのは、天台宗の最澄の後を引き継いだ円仁だと言われている。天台宗は、平安時代に最澄が唐に行き、持ち帰ったもので、”仏教と経典と大乗仏教の宗派について“や”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べているような顕教の一大体系(釈迦の教え)を持ち、密教色はそれほど強くはなかったものが、当時の人々は祈祷を中心とした密教に興味を持ち、最澄の後に完全な密教体系を持ち帰った空海のために、苦境に追い込まれた。その弟子である円仁に行き、天台宗の密教部門を確立し、人気を持ち返したとのエピソードが司馬遼太郎により語られている。

空海の起こした真言宗は、インドを起源とした密教であり、天台宗での密教は中国色が強いものと言われており、立石寺の仏像は、服装を含めて中国化されていると述べられている。ちなみに、地獄の裁判官である閻魔大王は、名前だけは仏典にも出てくるが、本来は地獄の裁判官ではなく、むしろ中国の道教の影響を受けて作られたもので、服装も中国の法官の格好をしている。

これは、円仁が持ち帰ったとも言われており、同様に護符やおみくじなども道教の小道具として円仁が移入したのではないかと司馬遼太郎は想像している。

護符

おみくじ

 

立石寺を過ぎ、羽州街道を北に上っている時に、一向は紅花畑に出会う。

紅花はその名の通り、紅をとることができる菊科の植物で、中国を経由して日本に入り、山形の土質が合い、江戸期までは山形県と言えば紅と言われ、最上紅の名をほしいままにしていたものらしい。

紅花畑をしばし休んだ後、一行は米沢市西南の小野川温泉に泊まっている。ここで司馬遼太郎等は山形の名物である芋煮に舌鼓を打つ。

芋煮は、里芋、ネギ、牛肉などが具材として、調味料は酒と醤油と砂糖だけで味付けされたもので、芋煮会」と呼ばれる河原に鍋や材料を持込み、家族や友人などと一緒につくったり、運動会や地域行事の後などに野外でつくったりイベントがひらかれている郷土料理となる。

小野川温泉宿泊の翌日は、米沢の街に向かい上杉氏ゆかりの旧跡を訪ねる。上杉氏は、上杉謙信の時代に関東一円に勢力を伸ばすなど拡大した後、その次の代の上杉景勝の時代に、豊臣秀吉により会津藩120万石に配置換えを受け、更に秀吉没後に起こった関ヶ原の戦いで西軍に加わり、徳川家康に敗れた為、米沢藩30万石に配置換えを受け、江戸時代に無嗣の危機に瀕して15万石まで減知されたが、明治維新まで大名としての地位を維持した一族となる。

このように何度も存亡の危機にあったにも関わらず生き延びてきたのは、文武両道に優れた家臣である直江兼続によるものとされている。直江兼続は大河ドラマや小説「天地人」でも有名であり

また鎧に”愛”の文字を用いていた武将としても有名な人物となる。

米沢の街では、林泉寺という直江兼続の墓がある禅寺を訪ね、上杉謙信を祭神として米沢城本丸跡に建立された上杉神社を訪ねている。米沢藩は全盛期の時代の1/10以下まで石高が減少した為、”街道をゆく – 長州路“で述べた毛利氏と同様に貧窮を極め、名家の墓であっても質素な作りであったらしい。

米沢を離れた後は、山形市の方向へ羽州街道を進み、途中白鷹町荒砥で最上川を眺めている。

ここで詠まれた松尾芭蕉の有名な句である「五月雨を集めて早し最上川」(暑い7月に、梅雨を集めたような最上川から吹いてくる風が涼しいことだ)に思いを寄せつつ、上山温泉で宿泊し、旅のゴールである山形市に入る。

次回フランス/スペイン/ポルトガルを巡る旅となる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 羽州街道-山形の道 […]

  2. […] 街道をゆく22巻23巻より。 前回は羽州街道–山形の道について述べた。今回はフランス/スペイン/ポルトガルを巡る旅となる。戦国時代に日本を訪れ大きな影響を及ぼした南蛮人であるフ […]

  3. […] 謙信亡き後、”街道をゆく 羽州街道-山形の道“でも述べている後を継いだ上杉景勝は、謙信の最も嫌がっていた兄弟同士の跡目争いでその勢力を大幅に減少させ、越後の国から […]

  4. […] また円仁は”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“や、”街道をゆく 羽州街道-山形の道“にも述べているように、日本各地に天台宗ゆかりの寺院を建立したことでも有名である。 […]

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