街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第9巻高野山みち

前回の旅は播州揖保川・室津みちであった。今回の旅は高野山みちとなる。高野山は空海の開創した山であり、司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南を超えて麓の九度山に入る。九度山では、大阪冬の陣までそこに住んでいた真田父子の悲運に思いをいたし、慈尊院で空海の母を思う。九度山から高野山へ登る町石道は当時荒れ果てて廃道同様になっていた。その入り口で、深山幽谷に引き込まれるような畏れを感じる。次に高野聖たちが空海と浄土信仰を結びつけたことを思い、修行僧たちが念仏を専修する真別処を尋ねる。

今回の旅は、和歌山県の山間部である九度山から。九度山は2016年にNHKで放映された大河ドラマ「真田丸」でも舞台となった真田昌幸、幸村親子が関ヶ原の合戦の敗戦後、信州の上田城を追われ、隠遁生活を送っていた場所となる。

九度山には、九度山・真田ミュージアムをはじめ、真田幸村にちなんだ名所が点在している。真田家は元々、”街道をゆく 潟のみち(新潟)“で述べた上杉謙信の好敵手である武田信玄の家臣で有名な川中島の戦いでも、武田方の武将として参加している。

武田信玄亡き後、その息子の武田勝頼の時代に武田家は織田信長により滅ぼされ、その後真田家は独立勢力として信州の上田に城を構えた。

織田信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉の時代になった時に、当主である真田昌幸は、長男信之を徳川側につけ、自分と次男である信繁(幸村)は豊臣方につき、どちらに転んでも真田家は残っていく形とした。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで豊臣方(西軍)について、徳川家康の息子秀忠の軍勢を上田に足止めし関ヶ原の戦いに参加できないようにしたが、大勢には影響せず関ヶ原の戦いは徳川方(東軍)が勝ち、敗戦した形となった真田昌幸は、徳川側についていた長男信之のとりなしもあり、死罪を免れ、高野山の麓にある九度山での隠居生活を送ることとなった。昌幸・幸村が住んでいた場所が真田庵となる。

この真田庵で10年過ごす間に、昌幸は病気により死去。その三年後に行われた大阪冬の陣に参加するため、幸村は、真田古墳と呼ばれる古墳跡を利用した抜け穴を使い真田庵を抜け出して大阪に向かった。大阪冬の陣/大阪夏の陣では大阪城に集まった浪人を指揮し活躍したが、劣勢は否めず、大阪夏の陣で討死した。

幸村の甲冑は「赤備(あかぞな)え」。のぼりや甲冑、旗指物など全てが赤一色に統一したものとなる。この甲冑を使うことで、自軍をより精強に見せるとともに、幸村を慕い命を賭けて共に戦う兵たちの士気を鼓舞していたとも言われている。

スターウォーズを作ったジョージ・ルーカスはダースベイダー等の衣装を日本の戦国時代の甲冑にインスピレーションを受けてデザインしたと言われている。全身赤づくめのロイヤルガードはこの「赤備(あかぞな)え」に影響を受けたのかもしれない。

九度山は、空海が開いた高野山の麓であり、真言宗の建物もある。その中の一つが丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)と慈尊院となる。

丹生官省符神社は、弘法大師空海が慈尊院を建立した際、地元ゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社であり、世界遺産に登録された慈尊院は、古くより弘法大師空海の御母君公の御寺として知られる場所となる。

慈尊院は九度山という名の由来にもまつわるとされており、空海が月に九度(9回)、高野山から御母君に会いに来られたということから九度山と名付けられたという説がある。

九度山・慈尊院から高野山に続く道は高野山町石道と呼ばれ、180本の町石が続く参詣道となる。

この道は、弘法大師が高野山開山の際、元々木製の卒塔婆を建て道しるべとした道で、鎌倉時代には、朽ちた木製の代わりに覚きょう上人の発願により、20年の歳月をかけて石像の五輪塔形の町石が1町(109m)ごとに建てられたものとなる。この五輪塔は、真言宗での宇宙を形成する物質である、「空」「風」「火」「水」「地」の5つの構成要素を「宝珠」「半月」「笠」「円」「方形」にかたどり、それぞれの部分に5つの要素を意味する梵字(サンスクリット語)が刻まれたものとなる。

高野山町石道で高野山大門までは約22km、徒歩だと7時間かかる道のりとなる。

空海が開いた高野山は、真言宗の大本山であり、大門から入ると様々な建築物が並ぶ場所となる。

真言宗は”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“でも述べているように大乗仏教がインドのヒンドゥー教の影響を受けてできた密教をベースとした宗教となる。

真言宗を起こした空海は、奈良時代末の宝亀5年(774年)に現在の香川県にあたる讃岐国に三男として誕生した。幼名は「真魚(まお)」といい、幼い頃から非常に聡明だったといわれている。18歳で”街道をゆく – 丹波篠山街道“で述べている長岡京に上がり、大学寮(律令制における官僚養成機関)に入り明経道(儒学)学んだが、1年で退学、山林に入り仏教修行に身を投じた。そのまま大学寮で働いていればエリート官僚の道がひらけていたにもかかわらず、みずからの信念に基づいて、あえて苦難の道に踏み出した。そこで空海は

「浮華(ふか)の名利の毒に慢ること莫れ」

浮ついた名利などに驕り、毒されてはならない。どうせ「貴き人も賤しき人も総て死し去る。死し去り、死し去っては灰燼となる。」のだから

「輪王(りんおう)の妙薬は鄙(いやし)んずれば毒と爲(な)り、法帝(ほってい)の醍醐(だいご)は謗(ほう)ずれば災(さい)を作(な)す。」

目標がよこしまな思いに満ちていれば、それを実現しようとして励むうちに、転輪聖王の仏法さえ毒と化し、大日如来の教えもかえって災いをなす等、名利を目指しては心は安らげない。名利を追い求めなければ、卑しい心に惑わされることもなく悠々と生きることができる。名利とはあくまでも後からついてくるものであると述べている。

また空海は仏教を最高の教えとしながら、決して儒教や道教を排除せず広い視野を持っていたところも他の仏僧とは異なっていたところとなる。さらに「永遠の誓願」と呼ばれる文の中で

「空を飛び、地にもぐり、水に流れ、林に遊ぶもの、総て其れ我が教師なり、同じく共に一覚に入らむ」

としている。これは、空を飛ぶ鳥、地中の虫、川に泳ぐ魚、林を駆け巡る獣などはみな私の教師だ。これら生きとし生けるものとともに、同一の覚りに包まれたい、と言う意味で空海の比べるもののない包摂性を示したものであると言われている。

ここで、司馬遼太郎は高野聖について述べている。司馬遼太郎によると、奈良・平安時代の仏教は官製仏教であり、国のために祈ることが仕事で、人々が死んで成仏するために祈ることはなかった。そのような概念は”禅の思想と歴史、大乗仏教、道の思想、キリスト教“でも述べているように、平安末期に法然が唱えた浄土宗から生まれており、それら国のためではなく庶民のために祈る僧侶は私度僧(しどそう)と呼ばれ、非認定の僧侶とされていた。

それらの私度僧の教えが次第に広まり、平安末期の浄土宗、浄土真宗あるいは鎌倉初期の禅宗として広まり、非認定の仏教が公認のものとなっていく。さらに、この庶民の為に祈るという行為が、人が死んだ時に浄土へ無事にいけるように僧侶が葬式を行うという形となっていった。

この庶民のために、全国を行脚して仏教を広める役割をになっていたのが、聖(ひじり)と呼ばれる集団であり、高野聖は高野山にいる聖のことを指す。このように聖のルーツは浄土信仰であり、真言宗の教えとは異なっているが、高野聖ではそれらがミックスされたものとなり、日本仏教的な何でもありの信仰となっていたと司馬遼太郎は述べている。

この高野聖は勧進と呼ばれる募金活動のためにも全国を回っており、”日本のアートの歴史と仏像につにいて“でも述べた平家による奈良大仏の焼失後の再建でも大きく活躍している。

司馬遼太郎一行は、高野山に到着後、この高野聖の修行僧たちが念仏を専修する真別処を尋ね旅を終える。

次回の旅は長野県、信州佐久平みちとなる。

コメント

  1. […] 真田幸村と空海 […]

  2. […] 第9巻より。 前回の旅は高野山みちであった。今回の旅は長野県、信州佐久平みちとなる。旅の起点はJR長野駅から、中世信濃武士団の興亡を追って、上田市で前回”街道をゆく 高野 […]

  3. […] 次回は高野山みちとなる。 […]

  4. […] そのような風貌ながら、武を用いることを厭わず、領地の周辺を積極的に武力制圧し「海道一の弓取り」の異名を持っていた。さらに領地の周辺には”街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“で述べた武田信玄や、北条早雲の孫で領地争いを仕掛けてきた北条氏康などの有力大名に囲まれながらも、巧みに彼らと同盟を組むという外交手腕にも優れた大名でもあった。 […]

  5. […] 十津川では、免租の特権を保証してくれる実力者側に常に出兵し、古くは”街道をゆく- 仙台/石巻“で述べている壬申の乱から、”街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と“で述べている平安末期の保元の乱、”街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“で述べている大阪冬の陣、また幕末の騒乱の時代の天誅組の乱等でしばしば歴史に現れてくる。 […]

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