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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
次に三河を訪ね、徳川家康の祖先が拠点とした松平郷を目指す。松平氏の菩提寺。高月院を訪ね、岡崎市内では、矢作川にかかる矢作橋にまつわる豊臣秀吉と蜂須賀小六の伝承と、岡崎を拠点とした徳川家康に思いをはせる。
濃尾参洲は尾州(尾張)、参州(三河)、濃州(美濃)の3つの国となる。このうち尾張は織田信長の領地であり、三河は徳川家康、美濃は斎藤道三の治めていた領地となる。旅の始まりは名古屋から、名古屋駅を少し離れた場所では地下への工事が行われている。
リニア新幹線の名古屋駅は、地表から30〜40のまでの地下空間を作り、さらに上下渡り線などの設備などを加えると、駅の全長は860m、幅は最大で60mという形で、駅の下をリニア新幹線が通る形となっている。
その名古屋駅から約3km離れた場所に名古屋城がある。
名古屋城は、駿河国守護・今川氏親により作られたものを、織田信長の父・信秀が奪い那古野城と称し、織田信長、清須城に移り、那古野城を叔父・信光に与えたところから始まる。
今川氏はいまの静岡市である駿府を代々の首都とし、駿河・遠江を領して、三河を影響下においてきた大名で、室町幕府を開いた将軍足利家の一門であり、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、将軍家指名候補第3位の家柄であった。
その今川家も、織田信長に桶狭間で倒された今川義元の祖父にあたる今川義忠が領地での戦いで戦死し、家督争いが勃発、これを収めて今川家を継いだのが、義元の父である今川氏親であり、それを助けたのが、”街道をゆく – 三浦半島記“でも述べられている最初の戦国武将と呼ばれる伊勢宗瑞 (北条早雲) となる。ちなみに北条早雲は氏親の母親である北川殿の弟で、氏親とは叔父/甥の関係となる。この辺りの話が細かく描写されているのが、漫画「新九郎奔る」となる。
今川義元は今川氏親の子にあたり、父の持っていた駿河の領土をさらに拡大、徳川家(当時は松平家)の持つ三河の領地の統合を含め、近隣を収める大大名となっていった。義元の母親は京都の公家であったことから、自らも公家であるという意識が強く(外政上の意識あったとも言われている)、当時の公家の様相である、頭は月代を剃らず、公卿風に総髪に結い、眉を剃って天上眉を置き、歯は鉄漿で染め、薄化粧という出たちであった。
そのような風貌ながら、武を用いることを厭わず、領地の周辺を積極的に武力制圧し「海道一の弓取り」の異名を持っていた。さらに領地の周辺には”街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“で述べた武田信玄や、北条早雲の孫で領地争いを仕掛けてきた北条氏康などの有力大名に囲まれながらも、巧みに彼らと同盟を組むという外交手腕にも優れた大名でもあった。
その今川義元が最後に残った周辺の敵対勢力である織田信長を倒すため、2万5千の兵力を集め(当時の織田信長の軍勢は2千から3千であったので、およそ10倍の戦力となる)攻め入ったのにも拘らず、1/10の兵力の織田信長に討たれた戦いが桶狭間の戦い(1560年)となる。
この時、今川義元は織田信長の勢力を一気に殲滅しようとしたため、兵力を分散して各個に城を攻めさせていた(徳川家康も今川勢として織田方の城を攻める役割を担っていた)のと、桶狭間は山地で道が狭く、身辺に配置する兵が300人程度であったこと、また当日は雨が降っており、軍勢が近づく気配を消してくれたことなど、様々な要因が絡み、織田信長の軍勢は今川義元を破り、その後の織田信長/豊臣秀吉による天下統一へと向かっていく。
司馬遼太郎一行はこの織田信長の桶狭間の戦いのルートを辿っている。織田信長は明け方の午前4時頃、居城である清洲城を発ち、8時頃熱田神社に到着
そこで軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った後、10時頃、前照寺砦(現在の名古屋市緑区)に入り、13時頃、視界を遮る豪雨の中、桶狭間にいた義元の本隊に奇襲をかけ、今川義元は討死した。今川軍はこの桶狭間の戦いで浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。さらに織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、当時織田攻めを行っていた徳川家康を含めた残存勢力を一掃した。
司馬遼太郎一行は、名古屋市緑区では名古屋市立緑高校から桶狭間を見下ろす。次に桶狭間にある藤田保険衛生大学を訪ね、室町時代に再建された寺院であり眼科病院でもあった馬島明眼院の眼科医の末裔を訪ね、その後桶狭間古戦場の高徳院へと向かっている。
その後一行は、三河を訪ね、徳川家康の祖先が拠点とした松平郷を目指し、松平氏の菩提寺高月院を訪ね、
岡崎市内では、矢作川にかかる矢作橋にまつわる豊臣秀吉と蜂須賀小六の出会い伝承と、岡崎を拠点とした徳川家康に思いをはせ旅を終える。
次回はモンゴル紀行について述べる。
コメント
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[…] 「街道をゆく」第5巻より。 前回は愛知県名古屋市近辺の旅について述べた。今回はモンゴル紀行について述べる。 […]