街道をゆく 壱岐・対馬の道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第13巻壱岐・対馬の道

前回は空海と四国遍路とスペインのサンティアゴ巡礼について述べた。今回は朝鮮半島と日本との間に位置し、古来より鉄の会場輸送の経路となり、神話や伝承の上で不思議な様相を帯びつつ、日韓両国の人と文化の歴史的な交流の舞台となって壱岐・対馬について述べる。

旅は福岡空港から始まる。そこから壱岐島へ飛び、印通寺浦の唐人神、遣神羅使の墓を訪れ、原の辻遺跡の報告書を読み、鉄の流入ルートを考える。岳の辻に登り、平戸藩に搾取された壱岐の歴史を振り返る。郷ノ浦で宿泊、国分寺跡により、勝本漁港へ、河合曾良の墓、朝鮮通信使の迎接所であった神皇寺跡で秘仏に対面し、唐神遺跡に立ち寄った跡、郷ノ浦のフェリーで海上2時間、対馬の厳原へ。

海上2時間で対馬の厳原へ、厳原で宿泊。隣の島にも関わらず壱岐人と対馬人は仲が良くないと、2つの島の性格の違いについて述べている。対馬では雨森芳州と申維翰を塩て朝鮮通信使を語り、南北縦貫道を北に進む。雞知の集落を過ぎ、大船越、万関瀬戸、小船越と浅茅湾を進み、本坂の海が身神社、新羅仏のある宝物館、天道山の天神多久頭魂神社を訪れ、千俵蒔山、佐須奈まで行き旅を終える。

壱岐島は、長崎県に属する離島となり九州と対馬の間に位置している。また、対馬と同様に九州と朝鮮半島の間に存在している島であることから、古代より朝鮮半島と九州を結ぶ中継点の一つとして利用されてきた。後述する対馬が山ばかりの島であるのに対して、壱岐島は平地も多く存在し、漁業だけでなく農業も盛んに行われてきた場所となる。

そのため、壱岐島には縄文時代からヒトが居住し続けた痕跡が島内各地に残っており、古墳なども現存して、古来より自然環境への人的な影響が強い場所となっており、中国の三国志時代の史書である「魏志倭人伝」にも邪馬台国の支配下の国があったと記述されている。

ヤマト朝廷時代に入ると令制国として壱岐国が置かれ、島の中央部に鬼の窟古墳笹塚古墳などの巨石石室墳の近くに壱岐国分寺が置かれた。

平安時代1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国の国司であった藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にした。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。

刀伊入寇 藤原隆家の闘い

また、鎌倉時代には”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べているモンゴル帝国とその属国となった高麗による2回の侵攻(元寇)を受け、当時の壱岐の守護代であった平景隆ら百余騎が応戦したものの、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、大きな被害を受けた。なお、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、また台風の影響もあり、元軍は壱岐島から撤退している。

アンゴルモア 元寇合戦記(2)

その後中世から江戸時代に向けて”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている松浦党の流れを汲む、平戸松浦氏が治める平戸藩の一部に編入されていった。

街道をゆくの旅では福岡空港から壱岐島へ飛び、印通寺浦の唐人神、遣神羅使の墓を訪れる。

次に岳の辻の展望台に登り、平戸藩に搾取された壱岐の歴史を振り返る。

郷ノ浦で宿泊、国分寺跡により、勝本漁港へ、河合曾良の墓、朝鮮通信使の迎接所であった神皇寺跡で秘仏に対面し、唐神遺跡に立ち寄った後、郷ノ浦のフェリーで海上2時間、対馬の厳原へ向かう。

対馬は、九州と朝鮮半島の中間に位置し、長崎県に属する島となる。地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的経済的交流の窓口の役割を果たしてきた。

対馬の形状は、南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長く、面積は約700km2で、日本のでは佐渡島、奄美大島に次いで第10位の広さになる(対馬の次は淡路島)。

東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達し、海岸線の総延長は915キロメートルにもおよぶ。特に主島の中央には西から大きく切り込んだ浅茅湾(あそうわん)があり、東からも三浦湾、大漁湾(おろしかわん)などが切れ込んで、多島海を形成している。また、浅茅湾の自然海岸線の延長は日本一の長さとして知られており、その他、各地に小さな湾があり、多くは漁港として利用されている。また、断崖絶壁もしばしば見られ、なかには、標高差が100メートルにおよぶものもある。前述の壱岐島と比べると耕地面積は大幅に少ない。

主島はかつて1つの島だったが、地峡となっていた部分に運河として、1672年寛文12年)に大船越瀬戸が、1900年明治33年)に万関瀬戸が開削され、一部に上島、下島と呼ぶ人もいる。これに対して国土地理院では「堀切りがあろうと、なかろうと対馬は対馬であり、一つの島と認識している」という見解であり、対馬でも島の南北を指すときには、古代以来、北を上県(かみあがた)、南を下県)しもあがた)と呼ぶのが通例となっている。

歴史的には、壱岐島と同様に朝鮮半島と九州を結ぶ中継点の一つとして重要な役割を担っており、中国の三国志時代の史書である「魏志倭人伝」でも邪馬台国に属した30余国のなかの一国とされている。また、600年頃の遣隋使や630年頃の遣唐使も壱岐と対馬を航路の目印ないし寄港地としていた。

その時代の朝鮮半島は高句麗百済新羅の三国が鼎立しており、最も南端の百済は日本と関係が深く日本への仏教の伝来を含めて大陸文化を伝道する役割を担っていた。北部に位置する高句麗は、中国の勢力(隋や唐)の侵略に脅かされ、最終的に670年頃に唐に征服されてしまう。

これらの流れを受けて新羅は、唐への忠誠心を示し援助を求め、660年に唐・新羅連合軍が百済を滅亡させる。

この時、多くの百済人が日本に渡り、大陸の文化を伝える役割を担い、更に時のヤマト朝廷を動かして百済復興を目指す為の活動を行った。その結果663年に白村江(現在の錦江河口付近)で、唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍が戦い、火計、干潮の時間差などにより日本・百済連合軍が大敗を期した。

天の血脈(2)

この白村江の戦いの後、日本と朝鮮半島の交流は途絶え、日本は対馬に防人を配置し更に国境要塞を構築して、大陸から侵略に備えるようになっていった。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。

 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず(若倭部身麻呂)

私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。

 唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして

唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。

更に、壱岐島と同様に(刀伊の入寇)や(元寇)により壊滅的被害を受けている。

明治維新後は、対馬は国境最前線の島として要塞化が行われ4つの砲台が作られた。

更に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも述べられている日露戦争での分岐点となったロシアバルチック艦隊との海戦は、対馬東方沖海域で行われ、対馬の港からは水雷艇が出撃したり、壊滅させたロシア艦隊のロシア兵が海岸に漂着し、彼らの救命救助を行ったりしている。

当時対馬に住んでいた人に日本海海戦の砲弾の音が聞こえてきたとも言われている。

次回は米国ニューヨークの旅について述べる。

コメント

  1. […] 次回は、朝鮮半島と日本との間に位置し、古来より鉄の会場輸送の経路となり、神話や伝承の上で不思議な様相を帯びつつ、日韓両国の人と文化の歴史的な交流の舞台となって壱岐・ […]

  2. […] 第39巻より。 前回は壱岐・対馬の道について述べた。今回は米国のニューヨークの旅について述べる。今回の旅ははマンハッタン島を中心に行われた。司馬遼太郎一行はタクシーでマン […]

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