俵屋宗達、尾形光琳 – 独自の構成力を元にした時代を超えたデザイン

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俵屋宗達

街道をゆく 京都の名寺と大徳寺散歩 – ダダと禅と一休“でも述べているように、茶道は単純に茶を飲むだけではなく、茶を飲むシチュエーション(書院風の茶室、茶室に飾られる絵画や花、茶の為の陶磁器等)すべてをデザインしてプロモーションするものであり、そのようなアートの総合プロデューサーの元祖とも言える人物が本阿弥光悦になる。

本阿弥光悦は書の世界でも有名で「寛永の三筆」とも呼ばれており、「蓮下絵和歌巻」はその光悦が「百人一首」の和歌を散らし書きしたもので、その下地にある金銀泥を用いて大胆に描かれた蓮下絵を作ったアーティストが俵屋宗達となる。

俵屋宗達は、本阿弥光悦と同時代の江戸初期のアーティストであり、その時代に好まれた書を認める紙(料紙)に華麗な装飾を作る為、十二世紀以来途絶えていた技法を復活させ、さらにそれらに金銀泥絵・雲母刷・彩色絵などを交えた画期的な料紙装飾を生み出し、光悦の期待に応えていった。

そこで、光悦が伝統的な和風の書風を出発点にしながらも、太細・大小・濃淡などを大胆に使い分けて、新しい書風を打ち出したの対抗するように、宗達も前例のない作風を確立していき、それらは次第に、書に従属した料紙装飾から脱して「鶴下画三十六歌仙和歌巻」に看られるように、書と共演する絵画世界となっていった。

その後宗達は寺院の襖絵や杉戸絵の制作に抜擢され始め、さらに”街道をゆく 堺・紀州街道“でも述べたような堺の大商人や、京都の富豪パトロンとなり、有名な「松鳥図屏風」や「風神雷神図屏風」などが描かれていった。

室町時代の屏風は一双屏風(ふたつの屏風絵をペアとしてもちいる)の形式が確立して以来、主流となっていたのは”雪舟の後を継ぐ長谷川等伯と狩野派“の長谷川等伯や狩野永徳の作品でよく見られる六曲屏風(六枚のパネルをつないだもの)であった。それに対して宗達が独特の構成力を発揮したのが、正方形に近い二曲屏風を二つ合わせた二曲一双という画面となる。横方向へ展開する構図を好む六曲屏風に対して、コンパクトで求心的な構成が要求される二曲屏風で、宗達は屏風の外枠を意識しつつ、左右の対照を工夫し、緊迫感のある構図ほ生み出している。

また、宗達は本阿弥光悦と作り上げた書の影響も受け、和風化された水墨画も確立している。水墨画は単に素材が墨であるということを意味しているのではなく、それまでの著色画とはまったく異なった空間表現、ものの捉え方、光の表現を行うアートであり、そこには技術の問題だけではなく、新しい絵画表現の問題が存在していた。宗達はそのような流れの中で、中国で発達した水墨画を自分たちの感性にあった和風化されたものに変えていったのである。

「蓮池水禽図」や「牛図」はそのような宗達の代表作となっている。

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「蓮池水禽図」では、墨の濃淡により蓮の形、花を取り巻く空間、水面、差し込んでくる光や湿り気を含んだ大気までが描写されている。墨のにじみを利用した独特の「たらしこみ(墨が乾かないうちに新しい墨を染み込ませながら、陰影や立体感を表す)」の技法も随所に見られるものとなる。

牛図は”人工無脳が語る禅とブッダぼっど“でも述べた禅の悟りのステップを描いたとされる十牛図から連想されたもので、牛に仮託して何ものにも束縛されない自由な心情を詠んでいる。ここでも宗達独自の「たらしこみ」や「彫り塗り(墨をある部分だけ筋状に残して筋肉の隆起などの立体表現に用いる)」「没骨(輪郭を描かず、墨の面だけで物の形を描く)」等のの技法が使われており、背景を描かず牛だけを描くことで対象の持つ躍動感や存在感を生み出している。

さらに、このような水墨画の技法とモチーフを応用したものとして、金銀泥絵での新様式がある。宗達の金銀泥絵の特徴は、輪郭線を用いず「面」の広がりとして対象を捉えるところで、モチーフはシルエットとして表されるが、決して平面に陥ることはない。また、モチーフはクローズアップされているとともにトリミングされている。これは一見技巧を感じさせないような力みのない描き方ながら、よく見ると形が的確にとらえられ、しかも細部描画にこだわりすぎす、均整のとれた優美な形が生み出されていることになる。

それらの代表的なものとしては先述した「鶴下画三十六歌仙和歌巻」や「四季花下絵和歌巻」などがある。

尾形光琳

尾形光琳の生家である尾形家は、雁金屋を屋号とする京都有数の呉服商で、徳川秀忠の娘で後水尾院の女御となった東福門院から呉服注文により、光琳の父の尾形宗護の時代の雁金屋が盛えることとなった。ただし、特定の顧客と結びついた特権的な商売は、後に雁金屋の没落を招く引き金となっていく。

その父親は本阿弥光悦の流れをくみ、多趣味であり、様々な文化に触れられると共に裕福な幼少期を過ごしたらしい。その後光琳はしだいに経済的に困窮していき、やむなく自活の道を探って絵師の道に進んだ。時に30代の後半(1690年代:江戸時代の初期)であった。

若い頃の光琳は、狩野派風の絵画を描いたときもあったが、彼が目指したのは、同じ京都出身の先達、俵屋宗達で、「歌仙絵画稿」では、宗達の描いた在原業平を書き写している。原画に近い右図比べて、左図では光琳流に工夫が加えられている。

「蹴鞠布袋図」は、布袋に蹴鞠をさせるというアイデアが見せどころで、京都の上流社会の社交的な雰囲気にあふれるものとなる。

光琳の代表作といえば、東京 根津美術館にある「燕子花図屏風」となる。

この作品は光琳40代半ばの制作で、少ない色数ながら、金地に映える青と緑の燕子花が書き誰さている。燕子花は古典「伊勢物語」ゆかりの花で、「伊勢物語」の第九段では、アリセラの業平一行が東に旅して、三河国八橋に立ち寄った時に、一面に咲いた燕子花を見て、望郷の歌を詠み、都の人々を偲んで涙する。その時詠まれた。

ら衣 つつ慣れにし まりあれば るばる来るる びをしぞ思ふ

は五七五七七の頭にかきつばたの五文字を読み込んだものであり、燕子花は単なる草花だけではなく、王朝の貴公子の深い思いを伝えるモチーフでもあり、この雅な感覚が重要なテーマとなっている。

部屋を飾る屏風に一面に燕子花や橋が描かれることによって、部屋の中の人々は「伊勢物語」の空間に入り込んだような感覚を味わうようなしくみになっているのである。

応天の門」はこの在原業平や”街道をゆく 本郷界隈“や”街道をゆく 神田界隈“で述べている全国の天満宮で祀られている菅原道真が登場する漫画で、平安時代の風俗がよく描かれている。

この「燕子花図屏風」が置かれた東京青山の根津美術館は、都会の中のオアシスのような落ち着いた雰囲気のある美術館となっている。

尾形光琳により意匠性が強く描かれた「梅」や「波」は「光琳梅」「光琳波」と呼ばれ、工芸品などの文様、紋などにも使われ、現在の工芸デザインの走りとも言われている。

       

コメント

  1. […] 俵屋宗達、尾形光琳 – 独自の構成力を元にした時代を超えたデザイン […]

  2. […] 狩野派と同時代に誕生したもう一つの有名な流派として、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた琳派がある。琳派には家元制度がなく身分的な制約もなかったため自由な画風が発展し、大和絵と漢画、両方の技法を駆使して斬新でありながら繊細な作品が多く描かれている。俵屋宗達と尾形光琳に関しては”俵屋宗達、尾形光琳 – 独自の構成力を元にした時代を超えたデザイン“も参照のこと。 […]

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