古代中国の合理思想 – 管子

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管子について

今回は、”街道を行く-閩(びん)の道“で述べられている管子について述べる。

管子(かんし)は、古代中国管仲に仮託して書かれた、法家または道家雑家の書物であり、管仲の著書だと伝えられているが、篇によって思想や言い回しが異なり著者は複数居るとされる。管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としており、成立についても戦国から代の長い時期に徐々に完成されたと考えられている。

管子は、管仲の著書であるとされているものの、実際は戦国期の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられており、また、内容的に見ると、各篇によって異なった学派、思想的立場に立つ人たちの著作がまとめられていると見られ、その面から言えば、実質的には雑家の著作であるとされている。その中で、「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」(穀物倉や米蔵が一杯になって初めて礼儀というものを気にするようになり、衣服や食物が欠けることがなくなって初めて栄誉や恥辱というものを気にするようになるのだ)という、物質的条件を重視し、まず民を富ますという独自の革新的経済政策を説いた言葉はよく知られている。

管子の中での思想のバライティを例に挙げると、「経言」は思想史上の史料として、「管子軽重」は社会経済史上の史料として重視され、また、農業史、農業技術史上の史料も各篇に散見され、「地員篇」は当時の土壌に関する認識をうかがう上での貴重な史料となっている。

その後中国の思想の中心となる”孔子の論語 総合的”人間学”の書“にも述べている孔子による儒教の観念的な世界観とは異なり、実を尊ぶ合理的な思想は、孔子などから器が小さいとして低評価だったが、司馬遼太郎はこの管子を読みながら、中国人の思考能力が人類の代表であるかのように輝いていた時代の所産であり、合理主義的な経済政策を主とした作品で、中国文明の合理主義は思想としても、自我の問題でも、紀元前の戦国時代の方が”近代”に近いという奇妙な倒立のかたちをとっていると述べている。紀元前に、人類が考えうるあらゆるタイプの政治論や哲学的論議がでそろってしまい、その後二千年、国教である儒教のもとに悠然と眠り込んでしまった、とも彼は述べている。

管子の思想は、三国志で有名な曹操や諸葛孔明に重用されたほか、日本では、”街道をゆく播州揖保川・室津みち“で述べている黒田官兵衛、二宮尊徳、上杉鷹山、”街道をゆく – 肥薩のみち“で述べている西郷隆盛、山田方谷、”孔子の論語 総合的”人間学”の書“で述べている渋沢栄一らが影響を受けたといわれている。

管子と林業

街道を行く-閩(びん)の道では、その中でも林業の部分に注目している。以下にそこでピックアップされた原文と解釈について述べる。

地の食ふべからざるもの、山に木なきものは、百にして一に当る。(大地で経済の足しにならないものは、たとえば木のない山である。百の禿山も、ねうちとしては一つの森林山にしか相当しない。)――「乗馬第五」

山林広しと雖も、草木美なりと雖も、禁発必ず時あり。(山林や草木がいかに豊かでもこの伐採禁止と解禁には、よき時というものがある。)――「八観第十三」

山林を順み、民の木を斬るを禁ずるは、艸木(草木)を愛する所以なり。――「五行第四十一」

天子、山を攻め石を撃つときは兵の作るあり。戦ひて敗れ、士死し、執政を喪ふ。(天子が、やたらに山林伐採や鉱石採掘をすれば、国がおとろえ、他国が攻めよせてくる。防戦してもかならず敗ける。)――「五行第四十一」

管子では、山林は国家の基礎であり、山林の保存が困難なものかということについて述べられている。

『管子』という書物は、漢以後、儒教を国教とした中国では、重んじられなかった。儒教は、家族秩序を中心とした修身斉家(身を修め家を斉えること)の思想である。家族・血族という円の秩序をととのえれば、その円を大きくするだけで治国平天下になる。人間と自然とのかかわり方は形而上的にも形而下的にも説かれていない。

中国の古代文明を哺んだ中原(華北平野)は、黄河と風が運んできた黄土でおおわれている。この偉大な土壌は、土の粒子のなかに水分を含んでいるために、雨がわずかしか降らなくても、作物ができる。このため、水を貯え、かつ人々に水をもたらす森林の保全には鈍感だった。ひとびとは森を消滅させても生きてゆくことができ、従って『管子』の森林論は、重んじられることがなかったと述べられている。

その他の管子の言葉

以下に林業以外の著名な管子の言葉について並べておく。

人臣(じんしん)たる者は、力を君に尽くさずんば、則(すなわ)ち親信(しんしん)せられず。親信せられずんば、則ち言(げん)聴かれず(臣下たる者、主君のために全力を尽くさなければ、信頼されない。信頼されなければ、何を言っても聞き入れてもらえない)

一年の計は穀(こく)を樹(う)うるに如(し)くはなく、十年の計は木を樹うるに如くはなく、終身の計は人を樹うるに如くはなし(一年で成果を挙げようとするなら、穀物を植えることだ。十年先を考えるなら、木を植えることだ。終身の計を立てるなら、人材を育てることに尽きる)

寧(むし)ろ君子に過(あやま)つも、小人に失するなかれ。君子に過つは、その怨(うら)みたるや浅く、小人に失するは、その禍(わざわい)たるや深し(君子の処遇に欠けることはあっても、誤って小人を高い地位につけるよりはましである。なぜなら、相手が君子なら、処遇を誤っても深いは怨まないが、小人をなまじ高い地位につけると大きな害を残すからである)

凡(およ)そ国の亡ぶるや、その長ずるものを以てなり。人の自ら失うや、その長ずる所のものを以てなり。故(ゆえ)に善く游(およ)ぐ者は梁池(りょうち)に死し、善く射る者は中野(ちゅうや)に死す(国はその長所が原因となって滅び、人はその長所があだとなって身を滅ぼす。泳ぎの名人が池で溺れ、弓の達人が弓で殺されるようなものである)

参考図書

管子を読む本としては”中国の思想(8) 管子

宮城谷昌光による小説”管仲(上)“、”管仲(下)“などがある。

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