街道を行く 十津川街道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

第12巻より 前回は中国・閩(びん)の道について述べた。今回は奈良・吉野の山奥に広がる十津川郷での旅について述べる。

旅のスタートは大阪から、タクシーに乗り南下して、富田林を経て金剛山の山中に入り、五条で土地のタクシーに乗り換える。十津川へと向かう山中で「十津川は古くより税の免除を受け国家の拘束を逃れていたため、「十津川共和国」というものをつくることもできるし、ひるがえっていえば実際は多分にそうだった」と考えている。

十津川郷への入り口の天辻峠では幕末の天誅組の命運と、上湯では新撰組に追われ十津川に逃げた田中光顕らのことを思う。最後に玉置神社を参詣し熊野に向かい、隠国と呼ばれた熊野が、十津川に比べて「目を見張りたいほどに広闊な野に感じられる」と述べている。

今回の旅は、奈良県の最南端に位置する十津川村への旅となる。十津川は桜で有名な吉野郡に属し、面積は672km2と日本で施政権の及ぶ範囲内では最も広い村となる。また、位置的には紀伊半島の内陸部にあり、三重県や和歌山県と県境を接する山深い場所となる。

刑事ドラマや日本各地を走る列車を舞台にした小説でお馴染みの「十津川警部シリーズ」は、作者の西村京太郎が探偵役の名前を考えていた際、たまたま見ていた日本地図で目に留まったため決まったものらしい。

歴史的には、山間部にあり、農耕に適しない地形であったため、古来免租の地域としてその時々の権力者の支配を受けずに半ば独立した村落共同体として存在し続けた。

街道を行く-十津川街道では、”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅“でも述べている幕末の志士、坂本龍馬が襲われ命を落とした京都・近江屋の事件で、襲撃者が「私は十津川郷のものだが」と名乗ったことで、龍馬側の人々が安心し凶行を許してしまったという話から始まっている。

十津川では、免租の特権を保証してくれる実力者側に常に出兵し、古くは”街道をゆく- 仙台/石巻“で述べている壬申の乱から、”街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と“で述べている平安末期の保元の乱、”街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“で述べている大阪冬の陣、また幕末の騒乱の時代の天誅組の乱等でしばしば歴史に現れてくる。

坂本龍馬の時代は、京都に支所のようなものを作り御所の門の衛士勤めていたこともあり、前述の「私は十津川郷のものだが」と襲撃者が名乗った安心してしまったとのこと。

十津川村の山塊が、大塔村や桜で有名な西吉野の山塊とともに大和盆地へ降りていく最初の平地が五条の町で、司馬遼太郎は居住地の大阪から、タクシーに乗り南下して、富田林を経て金剛山の山中に入り、五条に向かっている。

五条は江戸時代に幕府の代官所があったところで、幕末公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派(幕府を倒して新たに天皇が中心となって政治を行おうとする派閥)の武装集団である天誅組がまず最初に襲った場所でもある。

天誅組は”街道をゆく 京都の名寺と大徳寺散歩 – ダダと禅と一休“でも述べている京都東山の方広寺にて結成され、伏見から淀川を下り、河内で同士を加えて総勢約80人となった後、1863年8月17日に幕府が直接管轄していた五條代官所(現:奈良県五條市)を襲撃し、代官ら5人を斬首しました。

その後、五條代官所の近くの櫻井寺を本陣として、「五條御政府」を設置し、幕府による統治排除を宣言します。また当時、京都の政局を尊王攘夷派が握っていたため、この機に倒幕をはかろうと尊王攘夷派の公家や長州藩兵らが、倒幕計画の1つである「大和行幸(孝明天皇による攘夷祈願のために参拝などを行うこと)」を計画した。

しかし、天誅組が五條代官所を襲撃した翌日、京都では政変が起こり、公武合体派の公家や会津藩、薩摩藩の画策によって、尊王攘夷派の公家や長州藩兵は京都から追放され、尊王攘夷派が計画していた大和行幸は中止になり、その結果、天誅組は挙兵の大義名分を失い、さらには逆賊となったことで幕府の追討軍に追われることになる。

その後天誅組は天辻峠(現:奈良県五條市大塔町)に逃げ込み、そこで壊滅する。この天誅組の出来事は、明治維新のわずか5年前の出来事であり、天誅組の挙兵は尊王攘夷派として一番最初の武装蜂起だったため、明治維新の先駆けとなる歴史的なものとなり、奈良県五條市が明治維新発祥の地とも言われる場所となっている。

司馬遼太郎達は、この天誅組の足跡を追うため、五條市でタクシーを乗り換え、天辻峠に向かう。

その後、新撰組に追われ十津川に逃げた土佐藩の田中光顕のことを考えながら、奥吉野の温泉郷であり、川沿いの露天風呂が特徴的な上湯温泉郷に行く。

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旅の終わりは、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成するひとつで、知る人ぞ知るパワースポットである玉置神社に向かう。

境内は、霊峰・玉置山の山頂近く、樹齢3000年を越える杉の巨樹が群生する深い森のなか。太古の森が残り、まるでジブリ映画に出てきそうなほど神秘的な世界となる。

次回は韓の国について述べる。

コメント

  1. […] 前回は奈良県十津川街道について述べた。今回は韓国の旅となる。司馬遼太郎は、古代の朝鮮を体験しようと、韓国の農村を巡る旅にでる。釜山の龍頭山では、李舜臣の像を見て、祖国を救った海将に敬意を表し、釜山の近郊の金海では、金氏の祖廟・首露王陵を訪ね、礼拝する人を見て、李朝という儒教国家が続いているような思いにとらわれる。慶州郊外の仏国寺では、万葉集に出てくる「歌垣」を思わせる野遊びに出会い、その近くの掛陵では、古代を思わせる老人たちの酒盛りに合流する。大邸近郊の友鹿洞(友鹿里)という村では、秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮に投降して武将の実在を実感し、百済の旧都扶余では、古代日本と百済の関係や白村江で散った兵士たちの心情に思いを馳せる。 […]

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