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茶の歴史
茶はチャノキと呼ばれるツバキ科の常緑樹の葉や茎から作られる飲み物となる。
チャノキは主に熱帯及び亜熱帯気候で生育し、原産地は東アジアで、インドから中国の雲南省にわたる山系がそれらの一つであると言われている。それらの山系に住む少数民族(おそらく古代タイ語族)が何らかの方法(野生の茶の枝を折り、生木のまま焚火の中に突っ込んで炙り、それを枝ごと、煮えたぎっている湯の中に放り込んでそれを飲むようなことが行われていたとも言われている)で茶を飲んでおり、その飲茶の習慣が、低地に下って漢民族の風習になっていったと言われている。
中国では古くは漢の時代に、蜀(四川省)の漢民族が飲茶の習慣があったと文献にも残されているが、それらがいつ起こったかについては明確ではなく、”街道をゆく 中国・江南のみち“で司馬遼太郎は「茶」という文字の成立から茶の起源について推測している。
「茶」という文字は、八世紀の唐の時代に制作されたと言われ、中国で初めて(世界でも初めて)茶に関する専門書「茶経」を書いた陸羽(りくう)が作ったとも言われている。「茶」という文字が現れるまでは、苦菜(にがな)を表す荼(た)と共用されており、漢の次の時代となる三国志の時代に、漢中の人間が多く蜀に入り茶を(薬として)飲んでいるものを目撃し、それが中国北部にも広がり、その後の唐の時代に専門書が著されるほど飲茶の習慣が広まったものと言われている。
当時のお茶は「団茶(だんちゃ)」と呼ばれる、摘んだ茶葉を蒸し、臼で細かくしたものを団子状にして乾燥、これを削り取って釜の湯に入れ、茶の味がしたらだし汁を掬って飲むというものであったらしい。
この団茶は、”街道をゆく モンゴル紀行“でも述べたモンゴルにおいても「チャ」と呼ばれ、肉食と乳のみで、野菜をほとんど摂らない遊牧民族が、壊血病(ヴィタミンCの欠乏症)を免れるために、鰹節のようにナイフで削って粉状にして動物性の食物とともに煮て食べていることでも知られている。
これらは主に中国から持ってこられた。それらは非常に貴重で高価であったため、それらを手に入れるため遊牧民は困窮化していったと司馬遼太郎は”街道をゆく 中国・江南のみち“で述べている。
ヨーロッパに本格的に飲茶(喫茶)が入ったのは十七世紀、”街道をゆく オランダ紀行“でも述べているオランダからで、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている江戸時代の日蘭貿易において長崎の出島から伝えられたと言われている。ただし、日本式の茶であるため、セレモニーが付属し、受容した階層もかぎられていたらしい。
次に広まったのが”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“でも述べている英国となる。
茶の葉には酵素が含まれており、摘んでほうっておくと発酵し茶色くなってしまう(紅茶)、お茶の味はそれを入れる水の質(硬水/軟水)により大きく影響を受ける。“硬水”はタンニンの抽出が抑えられ、渋味が出にくいので、「美味しい、飲みやすい」と感じやすく、“軟水”は茶葉本来が持つ水色、香り、味がストレートに出て、質の良くない茶葉を使うと、渋味やエグ味がハッキリと出るものとなる。
イギリスでは軟水ではなく硬水が主であったため、紅茶にあっていたと言われている。ちみなに、硬水で淹れた紅茶はどっしりとした、飲み応えがある紅茶で、色は濃く出やすく、紅茶の色も赤黒く見え、軟水で淹れた紅茶は口あたりが柔らかく、飲みやすい紅茶で、色は美しい紅茶の茶葉本来の色が出ると言われている。
硬水での紅茶は、我々が日本で飲んでいるものとはまるで違うものになるようである。
英国では紅茶用の茶は主に中国から輸入していた。当時の清朝における長崎ともいうべき広東(広州)港から英国へ出てゆく茶の量は膨大であり、その代償として銀が支払われ、英国中が紅茶で浸るような状況下で、その代価としての銀が洪水のように中国に流れ込み、その銀を取り戻すために、産業革命の成果である毛織物を中国に買わせようとしたが、中国はそれらを受け付けなかった。
結局、英国(実務的には東インド会社)は十八世紀、アヘンを中国に売り付け、清国人民の多くを中毒患者にし、アヘン需要を高めることにより、茶による一方的な銀の流れを変えようとし、それを成功させ、それがアヘン戦争につながり、その結果清国は屈辱的な開国をさせられた。
そのアヘン戦争の20年前に、英国人がインドのアッサムの奥地で野生の茶を発見、インドの安い労働力でほどほどの値段となった茶を飲むことになり、中国の茶に対する需要は減少していく。このように茶は二十世紀の中近東の石油のように、世界に衝撃を与える物資となっていた。
日本における茶
日本では奈良時代、唐から入ってきたと言われており、当時遣唐使と共に唐に渡った”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“に述べている最澄が天皇に茶を立てたという記録や、”空海と四国遍路とサンティアゴ巡礼“で述べている空海が茶の種を持ち帰りそれが大和茶の始まりであるという記録が残されている。
当時の茶は団茶であり、茶の葉自体を長時間保存していたため、香りが弱く、生姜や甘蔓、香料などを加えて飲んでいたらしい。しかも非常に高価であったため、皇族などの特定の地位の人間しか飲めず、さらに平安中期に遣唐使が廃止されたため、団茶は次第に廃れ、お茶を飲む習慣も無くなっていったらしい。
これに対して”街道をゆく 京都の名寺と大徳寺散歩 – ダダと禅と一休“に述べているように、鎌倉時代に栄西が、茶の苗と共に、茶葉を固めずに保存し、飲む前に臼で引いて粉末にするという「抹茶」喫茶法を中国(宋)から持ち帰った。
当時の宋では、禅が全盛期で、修行僧は朝から晩まで禅院で忙しく働きながら坐禅を組み勉強をしており、襲ってくる睡魔と戦うために、抹茶を飲み眠気を覚ましていたらしい。
その後、”街道をゆく – 河内のみち“で述べている楠木正成が活躍した鎌倉末期に登場する佐々木道誉という婆娑羅(ばさら:サンスクリット語で金剛という意味で、度を超えた贅沢や派手な振る舞い、旧来の秩序や権威に反した行動を表す言葉)大名が武士仲間を集め、茶の産地を当てる「闘茶」と呼ばれるギャンブルを行い、日本中に広まっていった。
その後、室町時代中期に、京都銀閣寺を中心に花開いた東山文化により、室内に畳が敷き詰められた書院造りと呼ばれる日本独自の新しい建築様式が現れ、その中に「茶の湯の間」が誕生し、そこで芸能や料理、茶を楽しむ習慣ができていった。
さらに室町後期になると茶祖と呼ばれる村田珠光(むらたじゅこう)が現れ、「和漢のさかいをまぎらかす」と述べ、これまでの唐物(中国渡来の文化)への傾斜から脱却して独自の日本文化を作り出すと宣言した。ここから生み出されたのが”不風流処也風流 – 風流ならざるところもまた風流“でも述べている「わび・さび」と呼ばれる揺らぎの美となる。
この村田珠光の「わび茶」は”街道をゆく 堺・紀州街道“で述べている堺の豪商・武野 紹鷗に受け継がれ、千利休の手で究極の形となり、その後、”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“でも述べているように、日本では茶を飲むという行為を茶道として芸術文化の一つとなっていく。
茶そのものに関しては、江戸時代のある時期までは、製茶された茶も、飲む段階での茶も、文字通り色が茶色を呈していた。これに対して、茶色ではなく、茶畑で照り輝いている緑の色を残したまま製茶したいとして、新しい茶の製法を考えた人が京都・宇治の永谷宗円となる。
宗円は、これまで茶の芽を摘んで釜で炒り、手揉みして天日乾燥していたものを、炒らずに湯蒸しし、その後手揉みして乾燥することで葉の青さを残したままで茶を入れることができる青製とよばれる手法を編み出した。この手法で作られるものが「煎茶」であり「玉露」とも呼ばれる。
永谷宗円の子孫の一人に、お茶漬けで有名な永谷園創業者の永谷嘉男がいる。永谷園は、宗円の命日にちなんで5月17日を「お茶漬けの日」に制定している。
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