街道をゆく 中国・蜀のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第20巻 中国・蜀のみち

前回は中国・江南のみちについて述べた。今回は同じく中国・蜀と雲南の道について述べる。蜀はかつて劉邦が治め、諸葛孔明が活躍した場所となる。

今回の旅は、上海から蜀の都成都に向かうことから始まる。蜀はかつては到達が困難な峻険な地であり、その地形の影響で年中曇り空の天候だと言われている。成都では、地元の人と、少数民族や唐辛子、豆腐などについての会話を楽しんだ後、2000年以上成都盆地を潤し続けるダム・都江堰へ向かい、ダムをつくった李冰やその技術に感嘆する。その後成都への帰路で、幸福人民公社という村の農家に立ち寄り、日本の民家との共通点を考える。成都では、諸葛孔明を祀った武侯祠を訪れ、『三国志』や蜀の英雄たちに思いをはせる。杜甫草堂で儒教国家の知識人について考えた後、望江楼公園で日本とは違う竹を見、隣接する四川大学を訪れる。

今回の旅は上海から、上海を代表する歴史あるホテルである錦江飯店に宿泊し、

上海には現在2つの空港があり、日本からの国際便が発着する浦東国際空港は市内から少し離れた場所にあるが、司馬遼太郎等は国内線が多く発着する虹橋国際空港から成都に向かったと思われる。

蜀の都、成都は上海から3時間30程の距離となる。成都は山に囲まれた盆地で、広さは6000平方キロメートル(成都のある四川省自体は6万平方キロメートルでスペインよりやや広い程度)、日本で言うと茨城県がすっぽり入る広さとなる。ここは、古代の中国では、文明の中心であった漢中から遠く離れており、途中に千山万岳がかさなり、またそれらの断崖には、道がなく、断崖に棚をかけるようにして作られた「蜀の桟道」があるのみだったらしい。

また、大小の山のかさなりと無数の水系のためか、つねに水蒸気が立ち込めており、「蜀犬日(ひ)に吠(ほ)ゆ」という諺が作られている。これは蜀(四川省)の地は山に囲まれ、またよく霧がたちこめるので太陽があまり出ない。 たまに出ると犬が怪しんで吠えつくということを言い、転じて見識の狭い者が優れた人の立派な言行に対して、それを疑い、非難・攻撃することに喩(たと)える諺となっている。

蜀の国に大量の漢民族がくるのは、三国志の諸葛孔明の時代で、劉備玄徳が、魏の曹操と呉の孫権と争いを続けていた時、孔明の「天下三分の計」を採用し、ここに兵を率いてやってきてからとなる。

成都近郊は、冬でも零下に下がることはなく、真夏でも30℃を超えるのは数日だと、農作物に適した場所で、二毛作や南の方では三毛作もできる場所もあるとのこと。この大きな農業生産も、かつては水流が少なかったものを紀元前二世紀の秦の時代に「都江堰(とこうえん)」と呼ばれる大規模なダムを作ったからであったらしい。

この古代の大規模な土木工事により、灌漑面積は20万ヘクタールという広い地域が作られ、成都を現在でも潤している。

成都のある四川で有名なものに、中国四大料理の一つでもある四川料理がある。四川料理は酸(酸味)・辣(辛味)・麻(しびれ)・苦(苦味)・甜(甘味)・香(香り)・鹹(塩味)の7つの味のうち、特に痺れるような辛さを意味する「麻辣」(マーラー málà)を味の特徴とする料理となる。

四川料理では「三椒」と呼ばれる3種類の香辛料が重用され、「三椒」とは辣椒(唐辛子)・花椒山椒の同属異種)・胡椒(コショウ)となり、単純に辛いというよりは日本人にとっては痛い感覚に近い刺激の料理で、昔中国の沿岸部の工場に仕事に行った際に、工場の食堂で食べた麺料理があまりに辛く、一口しか食べられなかったことを思い出した。これは出稼ぎきている人が内陸部からが多く、味をそちらに合わせていたためであったらしい。

日本でも馴染みの深い「麻婆豆腐」も、成都のお婆さんが労働者向けに作った豆腐料理であるとのこと。

成都は、民族的にも十四の少数民族がいる場所であるらしく、司馬遼太郎の旅は、それら少数民族を訪ねての旅であった。(少数民族を訪ねての旅は、成都から昆明へと続いている)

成都ではその後、諸葛孔明を祀った武侯祠を訪れ、『三国志』や蜀の英雄たちに思いをはせている。ここで、司馬遼太郎は孔明の政治は、中国の中心的な思想である儒家(統治者の人格ができていれば法律は最小限で良い)はなく”法家と儒家 – 秩序と自由“でも述べている法家(明確なルールに則った統治)であったと述べている。それを表す有名な故事が「泣いて馬謖を斬る」(親友の子である将軍・馬謖が軍律に背いて街亭の一戦に敗れたとき、軍法によって馬謖を斬ったもので、「どんなに優秀な者であっても、法や規律を曲げて責任を不問にすることがあってはいけない」という意味で使用される)となる。

ちなみに、後世の三国志に対する解釈は史書である「三国志」(“街道をゆく 壱岐・対馬の道“にも述べている邪馬台国に対する記述がある史書)ではなく、十四世紀元の時代の末期に書かれた「三国志演義」という小説によるものが大きいと司馬遼太郎は述べている。これは例えば有名な「桃園の誓い」(劉備と関羽、張飛が誓い合った義兄弟の誓い)は、「三国志」にはなく「演義」でのみ現れ、義兄弟の結盟の風習も、劉備らが生きた後漢末にはなく、その遙か後の宋の時代以降であると言われている。(古代は封建的倫理で君臣の義はあったが、個と個が結びつく関係の倫理はなくねそれらが現れたのは、民衆の商業が盛んになった宋の時代以降であったらしい)

その後一行は、盛唐の時代の流浪の詩人である杜甫がしばらく住んでいたという成都郊外の草堂を訪れる。

杜甫は中国史最大の詩人であり、千四百余の詩と三十編余の散文を残している。そこで司馬遼太郎は

舎南舎北皆春水
但見羣鷗日日来
花径不曾縁客掃
蓬門今始為君開

という「客至る」という詩に思い出している。この詩は

春の水が、家の南や北にあふれている。 見るものといえば、日日やってくる鷗のむればかり。 門内の径に野草が花をつけている。客が来ないために草も掃わないという暮らしだが、平素は閉ざしている草ぶきの門をいまはじめて君がために開こう。

という内容で、春の水がぬるみ、物憂いほどの静けさの中に、珍しく客が訪ねてきた風景を美しく描いている。その後、一行は望江楼公園で日本とは違う竹を見、隣接する四川大学を訪れ、成都を後にしている。

次回は中国・雲南のみちについて述べる。

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