街道をゆく 奈良散歩

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第24巻 奈良散歩

前回は中国・雲南の道について述べた。今回は奈良散歩について述べる。

東大寺二月堂の修二会(お水取り)の行が始まる1984年3月1日の午後、司馬遼太郎は奈良を訪れる。翌日は多武峰を訪れ、洋画家・六条篤を思い浮かべる。興福寺では阿修羅の美しさを愛で、五重塔をめぐる明治初期の廃仏毀釈について考えている。さらに東大寺二月堂のまわりを歩きながら、1000年以上も続いてきた修二会の”文化”について思いをはせる。

今回の旅は奈良公園にある興福寺や東大寺、奈良博物館となる。

奈良公園は、奈良県奈良市にある都市公園であり、国の名勝にして名所でもある。総面積は約502ヘクタール。周辺の興福寺東大寺春日大社奈良国立博物館、なども含めると総面積はおよそ660ヘクタール(東西約4キロメートル、南北約2キロメートル)に及ぶ。通常はこの周辺社寺を含めたエリアを”奈良公園”と呼ぶ。

奈良公園にある奈良の大仏や、鹿(約1200頭)は国際的にも有名で、奈良観光のメインとなっており、修学旅行生の姿も多く見られる。

また、ここでは東大寺修二会なら燈花会正倉院展春日若宮おん祭など古都ならではの見ごたえのある行事も数多く、にはの名所として、日本さくら名所100選に選定されており、浮見堂周辺で花見を楽しむ人も多い。

司馬遼太郎一行は、東大寺修二会に参加することを主な目的としてここを訪れている。

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚が創始し、令和6年(2024)には1273回を数えるものとなる。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)法要」と言い、十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味する。

修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味し、天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされていた。この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになったもので、二月堂の名もこのことに由来している。

行中の3月12日深夜(13日の深夜1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれる。

12月16日(良弁僧正の命日)の朝、翌年の修二会を勤める練行衆と呼ばれる11名の僧侶が発表され、明けて2月20日より別火(べっか)と呼ばれる前行が始まり、3月1日からの本行に備える。そして3月1日から14日まで、二七ヶ日夜(二週間)の間、二月堂において修二会の本行が勤められる。

このような行為は、いっさい金銭で償われることはなく、また寺としても、他の寺社の行事のように、参観料や入堂料などが入ることがない。天平以来の伝統を一度も絶やすことなく千数百年も繰り返す修二会は、「東大寺を特色づける歴史的神聖慣習」であり、東大寺における「文化」であるということができる。

司馬遼太郎は、”仏教と経典と大乗仏教の宗派について“で述べているように釈迦没後に作られた経典は、平然と矛盾しあっており、そこから統一した答えを引き出すことは誰にもできないと述べている。にもかかわらず「仏教」という一つの名称でくくられるのは、それが釈迦によって説かれたということによるもので、そこにあるのは釈迦の巨大な思想的気分だけだと極論している。

仏教は、キリスト教やマホメット教のように、一神教でかつ教祖の言葉による「啓示宗教」であるものとは、宗教としての本質において異っており、神を崇え、とは説かず、これが真理であるとのみ説いている。東大寺の「文化」もこのような仏教の特色を表しているとも考えられる。

東大寺のある奈良公園には、”興福寺と武芸の聖地“で述べた興福寺や奈良博物館がある。

明治初期の神仏分離令により、全国の寺院は危機的な状況に陥り、地方によっては、鐘が叩き割られたり、仏像が燃やされるようなことがおき、興福寺でも僧侶が春日神社の神官の身分に変わり身して、僧侶がいなくなるようなことがおきている。そのため、寺が経済的な困窮して、仏像を売りに出したり、文化財が海外に流出するなどの問題がおきた。

この問題に対して、政府の心ある人たちの間により「博物館を作って仏像を守ろう」という気運が起こり、明治28年(1895年)に奈良博物館が開館している。当時の名前は「帝国奈良博物館」で、東京・上野の東京国立博物館に次ぐ全国2番目の博物館となる。

このような開館の経緯もあり、奈良博物館の収集する作品は、仏像、仏画などの仏教美術が中心となっている。館蔵品のほか、近隣府県の寺院から寄託された仏像も数多くあり、時代区分では、飛鳥から鎌倉時代までで、特に飛鳥時代と奈良時代は奈良に都があったので、当時の最高レベルの仏像が奈良に集中しており、さらに奈良時代までの仏像は現存数が非常に少なく、他の博物館ではほとんど見ることができない。

さらに、昭和30年代の館長である仏教考古学者として有名な石田茂氏が、仏教美術への専門化を推し進め、通常の寺では仏像は拝むものなので必ずしもクリアに見せる必要がないのに対して、奈良博物館では作り手の気持ちや意図が分かる構成に展示されている。

そこに展示されている仏像は飛鳥時代の菩薩立像。

奈良時代の誕生釈迦仏立像及び灌仏盤。

南北朝時代の金剛力士立像などを見ることができる。

次回は近江散歩について述べる。

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