街道をゆく 近江散歩

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第24巻 近江散歩

前回は奈良散歩にいて述べた。今回は街道をゆく、最後の旅となる近江散歩となる。司馬遼太郎は、近江の民家のたたずまいや、近江門徒という精神的な土壌、風土について語り、かつて神崎郡金堂で作家・外村茂の生家を訪ねたことに言及し、近江商人への関心を示す。

その後関ヶ原の不破関資料館に立ち寄った後、近江へ引き返し寝物語の里をを目指す。中山道柏原宿でもぐさ屋「亀屋左京屋」に立ち寄り、近江人の商売の極意を考察。彦根城を見て、築城した井伊直勝と直孝親子、同明衆の金阿弥を思う。

翌日、姉川古戦場で浅井・浅倉と織田・徳川の合戦を思い描き、国友鍛治の村で鉄砲伝来と信長との関係に思いを致す。さらに安土城跡山頂まで登り、琵琶湖を望む。近衛八幡市で水濠巡りをしながら、琵琶湖に息づく生命の続くことを祈りつつ旅を終える。

街道を行くのシリーズは”街道をゆく- 湖西の道と歴史とアイアンマンレース“で述べている近江の旅から始まっている。それらは主に琵琶湖の西側を辿る旅であったが、今回の旅は東側を巡る旅となっている。

世界の中でも独自のビジネス形態を持つ商社。その商社の中で大手と呼ばれる5社(伊藤忠商事、三菱商事三井物産住友商事丸紅)の中で、単体従業員数が最小でありながら多くの利益を上げている伊藤忠商事の創業者伊藤忠兵衛は、この近江の出身で中世から続く商人の集団である近江商人の一員でもある。

近江商人とは、近江国(現在の滋賀県)に本宅(本店、本家)を置き、他国へ行商して歩いた商人の総称で、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人のひとつ。「近江の千両天秤」ともいうように、天秤棒1本から財を築き、三都(江戸、大坂、京都)をはじめとする全国各地に進出し、豪商と呼ばれるまでに発展している。

近江商人の経営哲学のひとつとして「三方よし」が広く知られている。「売り手によし、買い手によし、世間によし」を示す『三方よし』は、「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考え方で、その根本には近江門徒(浄土真宗)の思想があると言われている。

空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べている浄土宗の流れの一つである浄土真宗は、すべてが阿弥陀如来のおかげで生かされているという絶対他力もを想定している宗教であり、そこには「お蔭(おかげ)」という概念が成立し、そのため、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではなく、自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などという表現を広く用いるものとなる。

同様な言い回しは、現在でも以下のように行われている。「それでは帰らせて頂きます」、「あすとりに来させて頂きます」、「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」

このような表現は、丁寧な表現ではあるが、相手に対する謙譲の意を表した敬語ではない、不思議な語法であると専門家も述べている。

街道を行くでは街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“や”笈の小文と街道をゆく-明石海峡/淡路みち“などで度々松尾芭蕉について述べられている。松尾芭蕉は”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“で述べた伊賀の出身であり、全国を漂泊して俳句を作ったのは、彼が本当は忍の仕事をしていたからだ、と述べる説もある。芭蕉は近江で作った句が多くあるのも、そのような出自によるものだとも考えられている。その中の一つに「猿蓑」にある一句で「行春を近江の人とおしみける」

では、行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩たる気分があらわれ出て来ない、と詠まれている。これは、湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない春の景色は、こまやかでもの柔らかく、春の気が凝って人になったような近江の人情のようなものである、という意味となる。

その後一行は、岐阜県(“街道をゆく 濃尾参洲記“でのべている美濃の国)と滋賀県(近江の国)の境にある長久寺(寝物語の里)や、多賀神社を通り過ぎた後、関ヶ原に向かう。関ヶ原は”街道をゆく 北国街道とその脇街道と古代日本の謎“で述べている古代大和時代の天下三関の中の一つである不破の関であり、徳川家康が天下を取った関ヶ原の合戦が行われた場所でもある。

その後中山道柏原宿でもぐさ屋「亀屋左京屋」に立ち寄り、近江人の商売の極意を考察している。もぐさは、よもぎの葉の裏にある綿毛を、よもぎを刈り取り乾燥して、臼でくだき、葉や茎を取り去るという作業をくり返すことで抽出したものとなる。

乾燥したよもぎから1/200しかとれず、よもぎに含まれる精油成分により、火つきがよく、熱さ少なく火持ちがよく、お灸に用いられるものとなる。

灸(きゅう、やいと)は、生理的には、経穴(つぼ)と呼ばれる特定の部位に対し温熱刺激を与えることによって生理状態を変化させ、疾病を治癒すると考えられているものとなる。同じツボを使用するが急性の疼痛病変に施術されてきたのに対し灸は慢性的な疾患に対して選択されている。また、近年セルフケアとして自己施灸もなされ、かつては艾を撚り皮膚上に直に据えるのが主流であったが、今は既に成形された各種の灸製品(例として「せんねん灸」や棒灸など)を用いることが多くなりつつある。

亀屋左京屋は1661年(江戸時代初期)に創業のもぐさ屋で、歌川広重が木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で描いている店でもある。絵の中には裃を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で街道を往来する旅人を見守る福助人形の様子(右端)が描かれており、福助人形発祥の店とも言われている。

現在もその古い店並みは残っている。

街道を行くでは、この亀屋左京屋の松浦七兵衛が、江戸で商売をする際に、利益が積み上がると吉原に向かい、芸者を揚げ、大夫を買い、一切を散財し、廓の評判男になった上で、そろそろ引き上げるという時に、おおぜいの芸者を呼び、これから宴席に出る際には「江州柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京のきりもぐさ」という歌を歌って欲しいと頼み、この単純なCMソングのおかげでその後売り上げは大幅に伸びていったという、近江商人ならではのエピソードについて述べている。

その後、幕末の一大事件である桜田門外ノ変(当時の改革派の大老であった井伊直弼が江戸城での勤務を終え桜田門を出たところで、水戸藩、薩摩藩の藩士に襲撃され、殺害される事件)で有名な大名井伊家が作った彦根城を見る。

井伊家は徳川家康の時代から武勇に優れ、その甲冑も朱色に染められていたことから「赤鬼」と呼ばれていたらしい。

街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“で述べた真田幸村の赤備(あかぞな)えの甲冑もそうだが、当時の強い武将は好んで目立つ赤を選んでいたようである。

その翌日、姉川古戦場で浅井・浅倉と織田・徳川の合戦を思い描き、国友鍛治の村で鉄砲伝来と信長との関係に思いを致す。”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“でも述べているように日本への鉄砲の伝来は鹿児島県の種子島からだが、その鉄砲が島津に贈られ、さらに京の将軍に贈られ、将軍から相談を受けた侍臣細川晴元が北近江の守護職である京極氏に相談し、京極氏の領内にある国友村という鍛治村に鉄砲が届くのに約1年、その仕掛けを見極め、複製を完成させるのに六ヶ月で作り上げた、と劇的な伝搬と模造が行われたエピソードが司馬遼太郎により述べられている。

しかも、中国や南蛮の鉄砲は鋳鉄(いもの)で作られていたため、量産性にはすぐれているが、割れるおそれがあったのに対して、日本のそれは鍛鉄(錬鉄)という、薄い鋼の板を何枚も貼り重ねつつ、焼いたり打ったりする手法をとったため、結果として銃身が強靭で何度も安定して撃つことができたらしい。また当時、日本にはネジが存在せず、そのメカニズムもふくめて理解されていなかったため、尾栓と呼ばれるネジの発明がブレークスルーの一つになっていたらしい。

その後安土城跡山頂まで登り、琵琶湖を望む。安土城は、織田信長により作られ、信長の死と同時に焼失した城で、大型の天守閣を持ち、地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている城となる。

この城は、日本最初の天守閣構造をもった城という点だけではなく、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれているものとなる。

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