サイダーと三ツ矢の歴史

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サイダーと三ツ矢の歴史

子供の頃外で思い切り遊び、へとへとになって家に帰り、

冷蔵庫から取り出して飲むものは瓶に入った炭酸水であった。

日本に初めて炭酸飲料が伝えられたのは、1853(嘉永6)年、アメリカのペリー艦隊がやって来た時だと言われているが、三ツ矢サイダーの歴史はもっと古く、時は平安時代の中期。”街道をゆく 嵯峨散歩(奥京都の旅)“でも述べている清和源氏の祖である源満仲が城を築くため、現在の大阪にある住吉大社に祈念したところ、「矢の落ちたところを居城にせよ」とのお告げがあった。満仲が矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛び、見えなくなった。探してみると、矢は多田沼に棲みついて住民を苦しめていた「九頭の竜」に命中していた。そこで満仲は多田沼に城を建て、矢を見つけた孫八郎という男に領地と三ツ矢の姓、そして三本の矢羽根の紋を与えた(これが後に三ツ矢マークとなる)。

ある日満仲が鷹狩りに出掛けたところ、居城に近い塩川の谷間の湧き水で、一羽の鷹が足の傷を治して飛び立つのを見つけた。湧き水は霊泉だったのだ。その場所が、多田村平野(現在の兵庫県川西市)。ここに湧き出る天然鉱泉(炭酸ガス入りの温泉)を利用した平野温泉郷は、明治初年頃まで長く繁栄を続けたという。

明治時代になると、当時多数来日していた外国の要人向けに良質な水を提供する必要が生じた。政府は各地で積極的な水質調査を実施。”街道をゆく – 神戸散歩“で述べているように神戸などでは寄港する外国船に良質な水を提供することで有名になった。

このような中で、1881(明治14)年、イギリス人理学者ウィリアム・ガランが平野温泉の水を分析して、「理想的な鉱泉なり」とのお墨付きを与えた。その3年後の1884(明治17)年、民間の工場が伝説由来の名称を取り入れた「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」を発売。平野温泉の水は「平野水」として広く世間に認知されるようになり、同時に三ツ矢の商標も確立した。

平野水は夏目漱石も愛飲しており『行人』・『思い出す事など』にも登場、また大正天皇の皇太子時代の1897年には御料品としても採用されている。

1907年に帝国鉱泉株式会社(旧 三ツ矢平野鉱泉合資会社)が設立され、従来の平野水を元に、砂糖を煮詰めた茶褐色のカラメルやイギリスから輸入したサイダーフレーバーを加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し、1921年に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称されて販売されている。

1921年に加富登麦酒が帝国鉱泉株式会社と日本製壜を吸収合併し日本麦酒鑛泉株式会社となり、1933年に大日本麦酒株式会社と併合されたが、「三ツ矢シャンペンサイダー」は日本麦酒鑛泉のユニオンビールと共に引き続き製造販売された。

太平洋戦争ではサイダーは軍需品だったため製造が続けられていたが、末期には工場を軍需工場として貸し出されたり、戦災で設備の一部を焼失するなどしていたため、終戦の翌年の1946年7月まで製造が中断されていた時期があった。1946年7月から製造が再開されたが、政府による砂糖の配給が行われていたため、使用が解禁されたばかりの人工甘味料ズルチンに切り替えて製造再開(のちにズルチンの安全性に疑問が出たため、自主的に使用中止)。1951年には砂糖の配給が終了したことから、砂糖を使った「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」も発売。なお「シャンパン」の名称使用について、フランスのシャンパン企業から全国清涼飲料連合会に抗議が来たため、1968年に「三ツ矢サイダー」に改名している。

大日本麦酒株式会社は、GHQが指示した過度経済力集中排除法による会社分割で、1949年に朝日麦酒株式会社日本麦酒株式会社に分割され、三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に朝日麦酒が継承し、「アサヒビール・三ツ矢サイダー」を販売することとなった。

当初のシャンペンサイダーは、合成着色料を使って色がつけられていたようだが、安全性をアピールする為、着色料の使用を中止し、現在のような透明なものになっていったらしい。

なおアサヒビールは、1950年代半ばからビールの販売低迷が始まり、一時は市場占有率10%を切り、会社存続が危ぶまれたが、1987年(昭和62年)にアサヒスーパードライのヒットで、業績復活するまでの約30年間の経営を支えたのは、三ツ矢サイダーの利益であったとのこと。。

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