与謝蕪村と春曙抄
“俳句の歴史とコミュニケーションの観点からの俳句の読み“で述べている与謝蕪村の句に
春風のつまかへしたり春曙抄(はるかぜの つまかえしたり しゅんしょしょう)
というものがある。これは、春風が女性の着物の褄をふわりと優しく吹き返した、と詠みかけて、実は『春抄』の冊子の端を春風がそっと吹き返したという、一瞬の場面転換が鮮やかに詠んだ句となる。
与謝蕪村は、俳句を高い芸術性をもった文芸として完成させ”笈の小文と街道をゆく-明石海峡/淡路みち“や”街道をゆく 秋田散歩と松雄芭蕉と菅江真澄“に述べているような旅の情景を詠った松尾芭蕉、滑稽・風刺・慈愛の3つの要素を持ち自我を詠った小林一茶と並び、江戸時代の俳諧の三大巨匠として有名な俳人で、蕪村の俳句は、写実的な手法と豊かな色彩感覚で表現されており、情景が浮かび上がるような絵画のような句と評されるものとなる。
この中で詠まれている春曙抄は、江戸時代に北村季吟により書かれた枕草子の注釈書である”枕草子春曙抄”のことで、春曙抄は、与謝野晶子や樋口一葉、白洲正子や森茉莉といった近代の個性的な文学者たちにより読まれ続け、紀元1000年広に作られた枕草子の世界を現代に繫げているものとなる。
北村季吟は、春曙抄の他にも”源氏物語絵巻とUXデザインのヒントで述べている「源氏物語」「土佐日記」「伊勢物語」「徒然草」等の平安・鎌倉時代の古典の注釈本を多く著作しており、これらの著作が人々に広く知られ、古典として認織されたのは、江戸時代にこれらの注釈本が広く読まれたことによっている。
吉田兼好と徒然草
徒然草は”「方丈記」豊かさの価値を疑え“に述べた方丈記と枕草子と並ぶ日本三大随筆の一つで、鎌倉時代から室町時代にかけて生きた吉田兼好(卜部兼好:うらべかねよし)によって書かれたものとなる。この3つの特徴はそれぞれ「枕草子を書いた清少納言は蟻の一匹として周囲を見回している人」「方丈記を書いた鴨長明は蟻への関心を捨てた人」「徒然草を書いた吉田兼好は蟻を高みから見ている人」と称されており、吉田兼好の高みはそれほどの高さではなく、ほどほどの距離と角度のところにみずからの立ち位置を持って、人間社会を見下ろしているとも称されている。
徒然草は以下の様な書き出しから始まる。
つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。
これは「手持ちぶさたなのにまかせて、一日中硯に向かって、心に〔浮かんだり消えたりして〕うつっていくつまらないことを、とりとめもなく書きつけると、妙に正気を失った気分になる。」という意味となる。
また、兼好の世の中を見るまなざしが現れている表現としては以下の様なものがある。
蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走(わし)る。高きあり賤しきあり。老いたるあり若きあり。行く所あり帰る家あり。夕(ゆうべ)に寝(い)ねて朝(あした)に起く。営む所何事ぞや。生(しょう)を貪り、利を求めてやむ時なし。
身を養ひて何事をか待つ。期(ご)する所、ただ老と死とにあり。その来(きた)る事速(すみや)かにして、念々の間にとどまらず、是を待つ間、何の楽しびかあらん。まどへる者はこれを恐れず。名利におぼれて先途(せんど)の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。
これは「蟻のように集まって東西に急ぎ南北に走る。身分の高い者あり賤しい者あり。老いたるあり若きあり。行く所あり帰る家あり。夜寝て朝起きる。人の営みは何なのだろう。やたらに長寿を願い、利益を求めてやまない。
身を養って何事を待つというのか。頼む所は、ただ老と死とにある。それは速やかにやってくるのであり、時々刻々の間に留まらない。これを待つ間、何の楽しみがあろうか。世俗にまみれている者はこれを恐れない。名利におぼれて終着点たる死の近いことを顧みないからである。
愚か者はまたこれを悲しむ。不死であることを思って、世の中の万物は変化するという物の道理を知らないからである。」という意味で、この狭い社会の中で、何をセコセコ生きているのかという無常観を表している。
徒然草が書かれた時代は、貴族中心の平安時代から、武士中心の鎌倉時代へと大きく変化した価値観の転換の時代であり、そのような時代の流れに捉われず、一歩離れた視点で世界を見るという観点は、それから600年以上後の江戸時代、武士から町人へ主体が移行した価値観の変化の時代にも共感され、江戸期の文化に多大な影響を及ぼすものとなっていった。
枕草子と春曙抄
徒然草を書くにあたり、吉田兼好が強く意識したものが枕草子で、徒然草の中にはその文体を意識的に真似ている部分がある。
枕草子の有名な序文は以下の様になる。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる。また、たゞ一二(ひとつふたつ)など、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕陽のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三四(みつよつ)、二三(ふたつみ)つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてゝ、風の音、虫の音(ね)など、はた、言ふべきにもあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、雪のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもてゆけば、火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。
これは「春は、明け方が良い。 だんだん、白くなっていく山ぎわの空が、 少し明るくなって、紫がかった雲が、細くたなびいているのがよい。
夏は夜が良い。 月のあるころは言うまでもない。 月のない
秋は夕暮れが良い。 夕日がさして、山ぎわに近くなったころに、からすが、ねぐらに帰るために、三羽・四羽、あるいは二羽・三羽、飛んでゆくのも、しみじみとしている。 まして、かりなどの列をつくっているようすが、(遠くを飛んだりして)小さく見えるのは、とても、おもむきがある。日がしずんでしまって、風の音や虫の声が聞こえてくるのは、言うまでもない(言うまでもなく、とても、おもむきがある)。
冬は早朝が良い。雪のふりつもった朝は、言うまでもない(言うまでもなく、良い)。霜がおりて、たいそう白くなっているのも、また、そうでなくとも、たいそう寒い朝に火などを急いで起こして炭火を持って、
“日本語の美 – 勅撰歌集について“にも述べている従来の日本の和歌の世界では、春と秋の比重が多く、夏と冬は少なく、また和歌の世界で定型化した季節のイメージがあった。それに対して、枕草子では春・夏・秋・冬の四季を対等に扱い、さらに和歌の世界で定型化した季節のイメージに新しい一石を投じたことが特徴とされている。
これらは、前述した「枕草子を書いた清少納言は蟻の一匹として周囲を見回している人」と称さた観点でも述べられている、日常をより細かく観察するという視点であるということができる。
これに対して、徒然草では、この枕草子の序文を強く意識した文が以下の様に書かれている
折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌えいづるころより、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
これは「季節の移り変わりこそ、何事につけても味わい深いものである。「もののあはれは秋がまさっている」と誰もが言うようだが、それも一理あるが、今ひときわ心浮き立つものは、春の風物でこそあるだろう。鳥の声なども格別に春めいて、のどかな日の光の中、垣根の草が萌え出す頃から、次第に春が深くなってきて霞がそこらじゅうに立ち込めて、花もだんだん色づいてくる、そんな折も折、雨風がうち続いて、心はせわしなく思ううちに散り過ぎてしまう。青葉になり行くまで、何かにつけてひたすら人の心を悩ませる。花橘は昔を思い出させるよすがとして有名だが、それでもやはり梅の匂いにこそ、昔のことも今が昔に立ち返って恋しく思い出される。山吹が清らかに咲いているのも、藤の花房がおぼろにかすんでいる様も、すべて、思い捨てがたいことが多い」という意味で、枕草子で述べられた四季の移り変わりの記述がなされている。
冒頭述べた春曙抄は、この枕草子の文学空間を美しく甦らしたものとなっている。
参考図書
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