脱構築とグラフニューラルネットワーク

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哲学の歴史と人工知能技術におけるパターン認織

現代思想入門の序章では、

「人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。}

と述べられてる。これは”特別講義「ソクラテスの弁明」より「哲学とは何を目指すものなのか」について“でも述べているように、古代ギリシアの時代から続く、人間がおこなう物事の本質や真理の追求の活動であるとも言える。

この本質を求めるという活動は、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“でも述べている華厳教のような初期の仏教や”キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム“でも述べているキリスト教やイスラム教などの宗教の世界でも見られる。

このような純粋で正しいものがどこかにあると言う考え方から、「我思う故に我あり」に代表されるように、人間自身の認織装置を通して世界を見て世界を認織するという発想の転換を行なったのがカント以降の近代の哲学であると”新しい哲学の教科書“では述べられている。

この「人間中心主義」な考え方は、新しい視点を提供したが、人間は人間自身の認織装置の外側から物体自体を直接参照することができなくなるという欠点を含んでいた。これは人間の思考が届かない人間が関与できない世界がある可能性を示唆し、純粋で正しいものがどこかにあると言う考え方からの脱却はできていないという矛盾も生じていた。

その外側の世界の認織に答えを提供したものの一つが、レヴィ・ストロースが世界中の神話をパターン分類し、その解釈を行った「構造人類学」から始まった”構造主義”となる。これは1960年代にフランスででブームになったアプローチで、具体的な姿は異なっていても、その奥に同じようなパターンが見られ、それを明らかにすると言うものとなる。また構造主義には、人類文明全体に及びパターンを発見するというモチベーションがあり、ある種の普遍学を目指していたという側面も持っていた。

この考え方は、人工知能の分野での”深層学習によるエンべディングですべてのパターンが掴め”それらにより万能AIが実現できるという考えに基づいた深層学習万能論に近い考え方であるということもできる。このアプローチは近年では”プロンプトエンジニアリングの概要とその利用について“で述べている大規模言語モデル(LLM)を構築し続けていけば汎用人工知能ができるという期待にも近いものでもある。

これらの考え方は、”ヒューリスティクスとフレーム問題“でも述べているようにある特定のフレーム(領域)の中だけで限定した静的な世界では成り立つかもしれないが、世界は変化しており、それらともないフレーム自体が時々刻々と変化する。そのため、汎用人工知能という普遍的なものを作ろうとすると、静的なパターン認織だけでは解けない問題が出てくる。

グラフニューラルネットワークと脱構造主義

このようなフレームの変化に対応する人工知能技術の一つが”グラフニューラルネットワーク“で述べているグラフニューラルネットワーク(GNN)となる。GNNはグラフデータに深層学習を適用したもので、通常の深層学習ではエンべディングを行いデータポイントのベクトル化(特徴量化)を行うのに対して、データポイントの周辺の情報をグラフを経由して収集し特徴量化するもので、このグラフが動的に変化する”動的グラフのエンべディングの概要とアルゴリズム及び実装例“でも述べているDynamic GNNは、前述のフレームが変化を表すことができるモデルとなっている。

このモデルを用いると、時間が経つことで変化していく関係性や、それぞれの情報の関係した人の感情のようなものもトポロジー的な関係性として組み込むことにより、同じ情報に対しても、特徴量が異なるものとして認織することが可能となる。

哲学の世界においても、動的なフレームの変化に対応した考え方は提示されている。それらの一つは、ポスト構造主義と呼ばれるものとなる。

ポスト構造主義は、静的なパターン認織では見ることができなかった動的な要素を、差異として認織していくことで、パターンの変化や、パターンから外れるもの、逸脱を問題にして、ダイナミックに変化していく世界を論じ、かつ人間の創造性のようなものを述べようとするものとなる。

このアプローチは人工知能技術でいうとグラフニューラルネットワークの世界に近い考え方になる。グラフニューラルネットワークでは、そのものがもつエンべディングが特徴だけではなく、それらがつながる他の存在との関係性のトポロジーを組み込んで、そのものの特徴としている。

またこの世界の向こうに存在するものに対するアプローチとして実存論もある。そこには、単にものがあるのか否かだけではなく、それに対して人間はどうかかわっていくかという問題提起につながるアプローチとなっている。

脱構築を提唱したデリダは、この差分として相対的な構造の基本要素である「二項対立」に注目して、そこからのロジックを組み立てている。

デリダの「脱構築」の考え方の具体例としては、音声言語(パロール)と記述言語(エクリチュール)間の階層的二項対立に関する「脱構築」が代表的で、ソクラテスの弟子のプラトン以来、西洋では音声言語が優位に立ち、記述言語はそれに劣位する存在として位置づけられていた(両者は、階層的二項対立の関係に立つ)。これは、声を発する人が眼前にいて、その者が感情を込めて話す音声言語こそが大事であり、それを記述した記述言語は、読み手によって解釈が異なるため、読み手が当初の音声言語を聞いた者と同様の理解に至るとは限らない。

また、記述言語が主流になると、人は、音声言語で聞いたことを覚える意思を喪失し、結果として記憶を保つ力が弱まることになる。記述言語が浸透すると、人の内部に存在する記憶は、””コンピューターでシンボルの意味を扱う“でも述べているように、外部の記述媒体を見た上での想起に置き換わっていくため、記述言語は、まさに人間にとって記憶力を減退させる「毒」の要素があると考えられていたのである。

これに対し、デリダは、

  1. 人間の内部と外部、音声言語と記述言語の差異は微妙かつ流動的なものであること
  2. 人間の内部における記憶にはそもそも限界があり、音声言語を聞いた者が、そのことを記憶として思い起こす段階では記述言語となる言葉の媒介を必要とする以上、音声言語が優位にあり、記述言語が劣位にあるという階層的二項対立の関係性は存在しないこと。

を述べて、音声言語(パロール)と記述言語(エクリチュール)間の階層的二項対立の構造を内部から破壊し、「脱構築」している。

また、倫理的行為と非倫理的行為という二項対立があり、前者が優位で後者を劣位とする階層的二項対立と一般的には考えられるが、これを「脱構築」的に考えてみると以下のようになる。

どんなに倫理的と評価しうる行為であっても、その側面で非倫理的な側面を伴う場合も存在し、倫理的行為と非倫理的行為は単純な二項対立ではなく、相対的な概念である。

具体的に言うと、道を歩いていたところ、ある学生Aが大人Bから素手で一方的に殴られていたため、Cがそれを助けようとして止めに入った際、持っていたナイフで大人Bを刺してしまったようなケースを想定する。

この場合、Cが学生Aを助けようと止めに入った行為は倫理的行為であるが、素手で殴っている者に対し、ナイフで刺すという行為は過剰な行為であり、この点においては非論理的行為と評価される。よって、当該救助行為には、倫理的行為と非倫理的行為が共存しており、単純な階層的二項対立として捉えることは難しい。

また、時代の変化とともに、倫理的行為と非倫理的行為の判断も変化するため、その行為の判断が微妙または流動的なケースも多い。これまで親が子供のしつけのために、子供に対し何らかの罰を与える行為(例:ビンタをする、家の外に締め出すなどの行為)は、親として行う効果的な教育行為であり、倫理的な行為の範疇で考えられていた。

しかしながら、家庭内暴力やパワハラなどの概念が社会問題化している昨今、このような行為も子供に与える肉体的・心理的な悪影響の側面をとらえて、非倫理的行為と評価するケースも増えてきている。

したがって、「脱構築」的な考え方によれば、倫理的行為と非倫理的行為の二項対立は絶対的なものでなく、一つの行為に両方の側面が内在しているケースもある相対的な概念ということができる。

哲学とビジネスでは、この二項対立について様々な分野での事例が述べてられている。

このような脱構造主義的な世界のモデリングは、前述のGNNで行うことが可能になる。つまり、GNNはダイナミックな世界をモデリングして計算する汎用コンピューターに一歩近づいた技術であるということができる。

コメント

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