人の創造性とAIとの共生 – 無意識と記憶

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行動経済学と人の思考システム

経済は「感情」で動いている“で述べている行動経済学は、現代の心理学における一つの潮流であり、従来の合理的な人間活動をベースとした経済学に対して、非合理的な思考や行動に焦点をあて、その非合理性に共通する法則を明らかにしようとするものとなる。

そこでは例えば「バットとボールの価格は合わせて1ドル10セントで、バットはボールより1ドル高い。ではボールの価格はいくらか」という問いに対して、多くの人が直感的にボールは10セントと答えてしまうが、実際はボールの価格をxとするとバットはx+1で、加えると2x+1=1.1、よってボールの価格は0.5(5セント)が正解になるような問題を対象としている。

これはノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授が50年間に渡り人々に出し続けてきた問題で、有名大学の学生でも5割以上が誤答するという、人間の脳がいかに非合理的で思考停止してしまうかがよくわかる問題となっている。

この例から明らかなのは、我々の心には二つのシステムが想定され、一つは直感的判断のように、迅速かつ自動的で無意図的・無意識的なシステム、もう一つは論理的判断のように、時間はかかるがコントロール可能な意図的・意識的なシステムとなる。

これを前述のカーネマンは「システム1」「システム2」と呼び、システム1は省エネ的な心の働きで、素早く決定に至るものの、非合理的な思考や行動につながる場合があり、システム2は、合理的な思考やハンダに寄与するものの、時間や労力が必要となり、ときに判断の時期を逃してしまうことも起こってしまうものとしている。

本ブログでも述べているAI技術は、このシステム2の合理的判断を人間の代わりに極限まで高めようとするものであり、”IA(Intelligence Augmentation)概要とその適用事例について“でも述べているIAは、システム1の有用な部分とシステム2をいかにしてつなげていくかというアプローチとなるとも言える。

特にシステム1は、科学や芸術での人間が行う創造的な活動の源泉となっていることが少なくなく、それらとAIほベースとしたシステム2を組み合わせることは、従来に無い独創的なアイデアやパフォーマンスを生み出す活動につながることが期待される。

このようなAIの有効活用を考える上で、システム1はどのようにして成り立っているかを考えることは重要であり、システム1に密接な関係があるとされる無意識の心の働きと、無意識の記憶による思考や行動への影響が、どのようにして調べられてきて、何が明らかになってきたかについて述べられた本が、岩波書店の”心の謎から心の科学へ-無意識と記憶“となる。

今回はこの図書のイントロダクションの部分を中心に抜粋していきたいと思う。

心への科学的アプローチ

“心の謎から心の科学へ-無意識と記憶”では、リヒャルト・ゼーモンの”ムネーメ 有機的出来事の変遷過程における保存の原理”と”フランシス・ゴードンの”人間の能力とその発達の探究”、そしてダニエル・L・シャクターの”記憶を求めて-脳・心・過去”の和訳が掲載されている。

どのようにして調べられてきて、何が明らかになってきたかという方法論は、”科学的思考(1)科学とは何か“でも述べている科学的なアプローチとなる。科学は、万物には「法則がある」という考えからスタートしており、それらは16世紀のコペルニクスやケプラー、ガリレオなどによる天文学と物理学の飛躍的な発展から始まっている。

心の科学的なアプローチに対しては、17世紀に「純粋理性批判」を書いたカントが、科学に必要なのは数学(数量化)と実験であり、心を対象にする学問では両者ともに不可能なので、心の科学は成立しないと主張して否定していた。

また、「我思う、故に我あり」で有名なカントは、あらゆるものを疑うという哲学的思考の中で、疑っている自分自身(すなわち心)の存在だけは疑問の余地のない確実なものと結論づけ、このような自分の心を探る内省という手法が心を調べるための標準になるとともに、その研究対象は意識できるものに限定されていった。また、デカルトの意識中心主義の考え方では、意識の要素となる観念の少なからぬ部分が生得的に持たられれるとし、経験の蓄積というものを軽視していった。

意識と経験

これに対して、すべての意識内容が経験により形成され、また意識の要素である観念の連合の重要性を主張したのが、「心は白紙である」と主張したロックに代表される”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“でも述べているイギリスの哲学者たちとなる。

連合主義者は、経験により獲得された観念どうしが類似していたり、時間的・空間的に接近していたりしていれば、観念の間になかば機械的に連合がおき、それらが意識の形成とつながっていくとしている。

学習(記憶)とは、観念どうしの間に連合(すなわち観念連合)を形成することであり、それを記憶として想起できるかどうかは、こうして形成された観念連合の強さに一義的に依存するとされ、学習と想起は区別されていなかった。このように、連合(連想)という過程そのものが無意識・自動的に起き、それは無意識のメカニズムそのものにも見える。しかしながら、連合主義者の観念はあくまでも意識できるものの範疇にとどまり、無意識とは離れた世界での議論となっていた。

また、このような経験を重視した考え方は”プラグマティズムとナレッジグラフ“に述べられているプラグマティズムとも繋がっていく。

ドイツでの無意識への注目 – ライプニッツとヘルバルト

ドイツの哲学者であり、”連続最適化の基本事項 – 微積分・線形代数の基礎“でも述べている微積分を発明したライプニッツは、その晩年の著作「モナドロジー」等で、前述したデカルトにおける意識中心主義やイギリスのロックの連合主義に反対し、心の中に浮かぶ表層は、内省によって意識にのぼる明確なものだけではなく、意識にのぼらない曖昧な表層の存在により作られるものもあることを主張した。

このライプニッツによる無意識の表層は、「モナド」と呼ばれる微小表層で、ライブニッツが好んで引き合いに出している例だと「我々は波のざわめきの全体の音を聞いて、これは波の音だと認織しているが、同時に一つ一つの波の音(微小表層)も耳に届いており、それらを意識することはできないが、それらは全体の認織に影響を与えている(もし微小表層が無であるならば、無をいくら加えても無のままで、波のざわめきは聞こえるはずがない)と説明される。

ライプニッツの唱えたモナドの概念は”現代思想2020年7月号  特集=圏論の世界 ――現代数学の最前線 読書メモ“で述べている圏論や、”関数とは何か – その歴史とプログラミングと機械学習“でも述べている関数型プログラミングの世界に現在でも生きている。

またこのモナドの考え方は、心を構成する微小な要素はすべてのもののの中に存在するという”現代思想 2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学“にも述べられている汎心論にもつながるものとなっている。

このライプニッツのモナド理論をさらに精緻にしたのが、同じくドイツのヘルバルトで、彼は「経験、形而上学、数学に新たに基礎付けされた科学としての心理学」の中で、意識と無意識の境界である閾(いき)の概念を提唱し、意識できる表層が弱くなると、それらは閾下の無意識に沈み込んでしまうものの、決して消えることはなく、そのまま存在し続け、再び意識に浮上する機会を待っているという理論を物理学の運動の法則をベースに数学的に確立しようとした。

ドイツでの無意識への注目 - ロマン主義

ライプニッツがモナド理論を提唱した時代のヨーロッパで、”オランダ黄金期の写実主義 – レンブラントとフェルメール“で述べているオランダやイギリスなどのプロテスタントの国々では、自律主義や合理主義、近代的な市民精神が確立され、あらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする「啓蒙主義」が盛んとなり、様々な科学技術が発展してきた。

これに対して、理性や社会よりも、不合理で個人的なものに価値を置こうとする「ロマン主義」がドイツを中心に盛んになり、日本においても”街道をゆく 神田界隈“や”街道をゆく 本郷界隈“でも述べている森鴎外や島崎藤村、樋口一葉等の明治中期の文学作品に大きく影響を与えた。

ロマン主義は、夢、狂気や精神病、天才、啓示、予知能力、運命など、自らの意思(つまり意識)ではコントロールできない現象に関心を抱き、それらの現象のもとになるのが、心の奥底にあると考えられていた無意識であるとされていた。

このロマン主義における無意識に対する関心を理論化したのが、ライプニッツやヘルバルトであり、人間の感情や行動が無意識の影響を受けているという考え方が、これらの活動により理論で裏付けられていった。

それらは”夢と脳と機械学習 夢理論から夢のデータサイエンスへ“でも述べているフロイトの夢理論へと繋がっていく。

これらの流れの中から、心の働きを調べるために、無意識を定量的に調べる手法の探索に向かっていくが、それらについては次回に述べたいと思う。

コメント

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