常盤国総社宮と手塚治虫とヤマトタケル

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常盤国総社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)と手塚治虫

常盤国総社宮は茨城県石岡市にある神社で、総社は、古代、ヤマト朝廷の行政官である国司が、自分が治める国の中の神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するために国内の神を合祀して、まとめて祭祀を行なっていたものとなる。

石岡市は、茨城県の県南に位置している人口7万の地方都市で、都心からは車だと常磐自動車道を通って50分、電車だとJR常磐線特急で50分の位置にある。

石岡市は、江戸時代に隣にあった御三家の一つである水戸藩の支藩として松平府中藩と呼ばれ、石岡だけでは大名と呼ばれる条件である1万石の禄高ぎりぎりであったため、陸奥国にある1万石の領地と合わせた2万石の藩となった。

この藩で幕末に医師として勤めたのが手塚良仙(手塚光照)で、彼は漫画家で、ブラック・ジャック」「火の鳥」「鉄腕アトム」等を描いた手塚治虫の曽祖父にあたり、良仙を主人公とした手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」もある。

この漫画は全8巻で、幕末の動乱期を描いた後期手塚作品の傑作の一つとなっている。

そのような縁から、この神社では、手塚作品を使った御朱印帳が売られていたり、拝殿前に手塚治虫の描いた巨大な絵馬か゛飾られていたりしている。

この神社には、第12代景行天皇の王子・ヤマトタケルノミコトが東征の際に腰掛けたと言われる倭武天皇腰掛石もある。

ヤマトタケルの旅

ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は、ヤマトタケルは『古事記』、『日本書紀』に登場する古代の英雄で、大和政権(大和朝廷ともいう)が列島を統一するために東奔西走して戦った皇子とされている。

彼は、父の景行天皇に命じられて”街道をゆく – 肥薩のみち“でも述べているように九州の熊襲(くまそ)を討ち、さらに東北の蝦夷(えみし)を制圧する。上述の倭武天皇腰掛石はこのヤマトタケルの東征の際に立ち寄ったとされるものとなる。

ヤマトタケルは様々な伝説を残しており。例えば西征での女装して熊襲健(くまそたける)兄弟を倒したエピソードは、手塚治虫のライフワークである「火の鳥」ヤマト編でも描かれており、

伊勢神宮で、”街道をゆく 因幡・伯耆のみち“でも述べたヤマタノオロチを退治した伝説の神器、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授かり、駿河のあたりで賊に襲われ、野原で焼き討ちにあったときに、その剣で、草を薙ぎはらい、炎をも退け、それ以降、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになる。

ちなみに草薙の剣は、天皇家のレガリアとして三種の神器(八咫鏡天叢雲剣草薙剣)・八尺瓊勾玉)の一つとなったが、”街道をゆく – 長州路“で述べているように、源平合戦の時代に安徳天皇とともに下関の海に沈んでいる。

その他のエピソードとしては、”街道をゆく – 三浦半島記“で述べている三浦半島と千葉の間を船で渡る(現在の久里浜から千葉の金谷を繋げている東京湾フェリーに近い航路)際に、海が荒れ荒れ狂う海を鎮めるために、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海に命を捧げるという出来事もあり、ヤマトタケルが「あずまはや(わが妻よ)」と悲しんだことから、東日本を東国(あずまのくに)と呼ぶようになったという伝説があったり

旅の最後に、”街道をゆく- 湖西の道と歴史とアイアンマンレース“でも述べている滋賀県の伊吹山で神の化身である白猪を威嚇して、神の怒りを買い体力を失い、三重県の能褒野(のぼの)で力尽き、そこで亡くなっている。

ヤマトタケルの死後、その魂は白鳥となって飛び去ったとされ、この伝説は「白鳥伝説」としても語り継がれている。

三重県の亀山市には、ヤマトタケルの墓とされる熊褒野御墓(のぼのおんぼ)があり、また、白鳥となったヤマトタケルが降り立ったといわれる大和の琴弾(奈良県)、”街道をゆく – 河内のみち“で述べている河内の古市(大阪府)にもヤマトタケルの墓とされる白鳥の陵(みささぎ)が残されている。

このようにヤマトタケルは当時の日本をほぼ全て縦断して平定し、すべての仕事を終え帰郷する際に死んでしまい天皇にもなれなかったという悲劇のドラマの主人公であった。

ヤマトタケルの最後はNetflixの韓国ドラマでもよくあるパターンの英雄の毒殺もイメージされるが、ヤマトタケルの父、第十二代景行天皇は神々と人とをつなぐ時代の天皇にあたり、実在はしていないという説が有力で、ヤマトタケルもまた、列島を平定した軍事力を人に例えたのではないかとも考えられてもいる。

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