「考える」ことについて
「考える」ということはどういうことなのか、「NHK出版学びの基本-考える教室大人のための哲学入門」を読んで感じたことを書いてみたい。
この本の中では、考えるということについてデカルトの著書を元に考察している。まずデカルトの「方法序説」の書かれてある文章を以下のように提示し、
ある種の精神の持ち主は、他人が二十年もかかって考えたことすべてを、
二つ三つのことばを聞くだけで、一日で分かると思い込み、
しかも頭がよく機敏であればあるほど誤りやすく、真理をとらえる力も劣り、
かれらがわたしの原理だと思い込んでいることを基礎にして、
とほうもない哲学を打ち立てるきっかけをそこから与えないためであり、
またその誤りをわたしのせいにされないためである
それらから、事実を確認するのは簡単だが、それを生きるのは難しい。頭でわかることと、それを血肉化することは全く異なると言っている。
他人が20年かけて考えたことは、私たちも20年かけて考えて見る必要がある。せめてその準備をしなくてはならない。重要なのは「早く分かる」ことではなく「長く考える」ことであるとも述べている。
他人が考えたものを学ぶ手段の一つとして読書がある。本に書かれてある文字を理解する事が読書の一義的な解釈だが読書はそこに終わらない、「眼光紙背に徹す」とか「行間を読む」言う言葉はまさにそのことを言っている。前者は書物を読み、その奥にある非言語的なものを認識せよと言う意味で目に見える文字を扉にして、その奥にあるものを「眼」で感じとることが読書であると言っている。
書物とかwebの記述も含めて、作者の頭の中の知識を形式化した時点で多くの情報が失われて形となる。それをただ読んだだけでは単純に(早く)分かるというだけで、(長く)考えることにはならない。ということになるのだろう。
長く考えるためには、目的(指向性)がなければならない。それがデカルトの書では「生き方」とか「魂」の話まで昇華されるのだが、そこまで大仰な話にしなくとも、日々の仕事や生活の中で個別の対象(課題)に対して、長く考えると置き換えることもできるのではないだろうか。
また、自分のものとして考えるためには前回述べた「冷暖自知」のスタンスが重要になるのではないかと思う。
コメント
[…] 人工知能システムを考える際には、この「知能(intelligence)」と「意味の理解(Understanding Meaning)」をしっかりと特別して考えることが重要になる。考える機械を作ることと、知的な機械を作ることは全く異なるものなのである。 […]
[…] 「考える」ことについて […]