視線の彼方に – ゲルハルト・リヒターのアート

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ゲルハルト・リヒター

瀬戸内国際芸術祭“でも述べている豊島で、透明な14枚のガラス板が、連続してハの字を描くように少しずつ角度を変えて並ぶオブジェが展示されている

これは「ゲルハルト・リヒター 14枚のガラス/豊島」と呼ばるもので、この作品は、190cm × 180cmの透明なガラス板14枚を、微妙に角度を変えてハの字状に並べた、全長約8メートルに及ぶもので、ガラスは台座の上に直立し、周囲の自然光や風景、鑑賞者自身の姿を映し出し、時間や天候、季節によって表情を変化させるものとなっている。

作品を収める建物もリヒター自身のアイデアとデザインに基づいて設計されており、竹林に囲まれた斜面に建つシンプルな直方体の構造となり、 海側は全面ガラス張りで、側壁にも縦長の窓が設けられ、自然光がふんだんに取り込まれるよう工夫されている。

ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932年〜)は、20世紀後半から21世紀にかけて最も重要な現代美術家の一人とされる、ドイツ出身の画家・アーティストである。その活動は写真のような写実絵画から抽象絵画、インスタレーション、ガラス作品にまで及び、常にスタイルや技法を変化させながら「イメージとは何か」「真実とは何か」という問いを探求している。

ゲルハルト・リヒターの作品世界は、多様な手法と思想に貫かれながらも、常に「見ること」そのものへの問いかけとして展開されている。彼の創作は、絵画と写真、抽象と写実、偶然と意図、現実と記憶といった二項対立のあわいに位置づけられ、それらの境界を静かに、しかし鋭く揺るがしている。

作品の特徴とスタイル
  • フォト・ペインティングは、白黒写真をもとに絵筆で再構成し、あえてぼかし(blur)を加えることで、記憶の曖昧さや歴史の不確かさを可視化している。たとえば《Ella》(2007年)は、孫娘エラの写真をもとに描かれたフォト・ペインティングであり、写真のような写実性と絵画的なぼかしを融合させ、私的な家族の肖像を通じて、記憶や時間、存在といった普遍的なテーマを静かに表現している。感情を抑えた筆致の中に深い愛情がにじむ、リヒターにとっても特異な家族を描いた作品のひとつとなっている。

  • アブストラクト・ペインティングでは、スキージ(ヘラ)を使って絵の具を重ね、引き伸ばすことで、偶然性を作品に取り込み、作者のコントロールと予測不可能性が共存し、「意図された偶然」というリヒター独自の絵画世界が構築されたものとなっている。

  • カラーチャート(色見本)シリーズでは、色を数学的あるいは偶然的に配置し、視覚的秩序と無作為性、さらには「感情の排除」をテーマとしている。ここには「色そのものを見る」ことへの純粋な関心があり、感情的・物語的意味を削ぎ落とした、知的で構造的な美が表現されている。

  • ガラスや鏡を用いた作品群では、光の反射や透過性を活用して、観る者の位置や視点を常に揺るがし、「見るとは何か」「空間とは何か」という根源的な問いを投げかけている。豊島の《14枚のガラス》も、この視覚と空間の実験の系譜に連なる。

思想・テーマ

リヒターの創作には、強い哲学的意識が通底している。彼は「真実のイメージは存在しない」と語り、いかなるリアリズムも抽象も、所詮は「見るという行為」の主観性に根ざすものだと主張している。その視点は、ナチスや冷戦など、自身が生きた時代の歴史的トラウマとも深く結びつき、絵画を通じてそれらに向き合う行為として昇華されている。

リヒターの主張は、エドムント・フッサールやモーリス・メルロー=ポンティの現象学と響き合います。特にメルロー=ポンティが語った「見ることとは世界との相互作用である」という考えと通じ、「見る=認識=構築された体験」という認識論的立場に立っている。

絵画や写真は、現実の客観的断面を提示するものではなく、むしろそれを見つめる主体との関係性の痕跡として現れる。したがって、「真実のイメージ」という絶対的・客観的な存在は成立し得ず、あらゆる視覚表現は知覚の不確かさと主観性に根ざしている。この立場は、現実を再現可能な対象とみなす科学的・合理主義的モデルから意図的に距離を置き、人間の知覚という流動的で曖昧なプロセスを前提とした世界観を示すものとなっている。

リヒターは、ナチス政権下での少年期と、戦後の東ドイツで社会主義リアリズムに囲まれた経験、そして西ドイツへの亡命という歴史的背景を背負いながら制作を続けてきた。その作品群には、個人的かつ集団的なトラウマ記憶とイメージとの関係を探る姿勢が一貫して流れている。彼にとって写真とは、単なる記録ではなく、感情や記憶によって変容した「再構築された痕跡」であり、そこに絶対的な真実は存在しない。とりわけ、画面に施された「ぼかし(blur)」の技法は、記憶の曖昧さや抑圧、そして意識の断片性を象徴している。リヒターの絵画は、忘却と想起がせめぎ合うなかで形成される「内面の風景」として立ち現れ、外的現実の写しではなく、記憶や知覚の揺らぎそのものを描く営みである。彼は絵画を通じて、心の奥底で繰り返される認識の再構成を視覚化しようとしているのである。

また、リヒターは宗教画家ではないものの、その制作姿勢には仏教の「空(くう)」の思想やキリスト教における偶像否定(アイコノクラズム)と通じる深い精神性が見られる。仏教において「空」とは、すべての存在が固有の実体を持たず、関係性の中で相対的に成り立つという教えであり、この視点からすれば、イメージもまた実体ではなく、縁起によって現れた一時的な仮象にすぎない。写真や絵画も本質的には「無常」であり、永続的な意味や真理を宿すものではない。リヒターの作品、とりわけ《アウシュヴィッツの写真》のような表象困難な主題においては、イメージを明確に提示するのではなく、むしろ「見えないままに」提示するという沈黙の美学が貫かれている。そこには、イメージへの無自覚な信仰や視覚的支配欲への問い直しがあり、「見ること」そのものの倫理性を問う宗教的な深みが静かに息づいている。

視線の彼方に

リヒターは、現代アート市場においても極めて高い評価を受ける存在であり、その作品はしばしば数十億円の価格で取引される。しかし、単なる市場価値を超え、彼の本質は「画家でありながら、写真・建築・空間の概念に挑み続ける思想家」としての姿勢にある。

それは、美術史の流れの中でポップアートやミニマリズムと共鳴しつつも、ドイツ的思索の深さを伴った独自の「冷静なる実験」として評価されている。

彼の作品には、多様性と実験性、静謐さと知性が共存しており、それぞれの表現手法は異なりながらも、一貫して「イメージとは何か」「私たちは何を見ているのか」を問い続けている。

参考文献(学術・批評・作品集)
  • Gerhard Richter: Panorama』(Mark Godfrey 他/Tate)
     リヒターの回顧展カタログ。代表作・思想・技法を包括的に網羅。

  • Gerhard Richter: Text – Writings, Interviews and Letters 1961–2007』(Hans-Ulrich Obrist 編)
     リヒター自身による思索、日記、インタビューなどを収録した一次資料集。

  • Gerhard Richter: Doubt and Belief in Painting』(Robert Storr)
     MoMAのキュレーターによる分析。絵画への「信仰と疑念」の関係を読み解く。

  • The Daily Practice of Painting』(Gerhard Richter 自著)
     リヒター自身の断章的芸術論。深い内省が表れた思索の集積。

  • Art Since 1900』(Hal Foster 他)
     20世紀美術史の文脈からリヒターをポストモダン美術として位置づけ。

  • Gerhard Richter: Glass and Mirror Works』(Armin Zweite)
     光と空間を扱ったリヒターのガラス・鏡作品の研究書。豊島作品も収録。

他の代表的作品とジャンル分類

フォト・ペインティング(写実とぼかし)

  • Betty》(1988)
     後ろを向いた娘の肖像。写実性と心理的距離感の共存。

  • Ella》(2007)
     孫娘の肖像。記憶と存在の詩的表現。

  • Uncle Rudi》(1965)
     ナチス軍服の叔父。歴史の曖昧さと記憶の操作を象徴。

アブストラクト・ペインティング(抽象画)

  • Abstract Painting 599》(1986)
     スキージを用いた偶然性の操作と層の構築。

  • Abstraktes Bild》シリーズ(1980年代〜)
     色彩と物質性の抽象世界。視覚のエネルギー場。

カラーチャート(Color Charts)

  • 4900 Farben》(2007)
     色タイルの無作為・規則的配置。数学と偶然の融合。

  • 1024 Farben》(1973)
     純粋視覚への探求。感情や物語性を徹底排除。

ガラス・鏡作品(空間と知覚)

  • 14枚のガラス/豊島》(2010頃)
     自然と共振する空間装置。光と視線の解体。

  • 8 Panes》(2012)
     重ねられたガラスによる反射と透過の構成。

  • Mirror Painting》シリーズ(1980年代〜)
     鏡面を用いて見る行為そのものを揺さぶる。

歴史・記憶・倫理

  • October 18, 1977》シリーズ(1988)
     ドイツ赤軍(RAF)の死をぼかしで描く。表象の限界と倫理性を問う。

  • Birkenau》シリーズ(2014)
     アウシュヴィッツの写真を抽象で変換。見ることの暴力への応答。

展示と場所(日本)

  • 《14枚のガラス/豊島》
     豊島美術館近くに常設展示。建築と一体化した自然との共鳴空間。

  • 《Betty》などの作品
     大阪・国立国際美術館などで回顧展として過去に展示。

  • アブストラクト・ペインティング
     東京国立近代美術館で特別展にて展示実績あり。

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