禅とアート

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禅とアート

life tips & 雑記としての禅の紹介。”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“でも述べたように、禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のこととある。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。

このように、師匠と弟子の間のやりとりは考案(判例)で残されていることが多いが、禅に由来するアートも多く残されている。2016年に上野にある東京国立博物館にて開催された”臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念 特別展「禅ー心をかたちにー」”はそのような禅僧の肖像画や仏像、書画、工芸などを集め、禅の真髄に触れることを目的とした展示になっていた。

禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“で述べたように臨済禅師は臨済宗の開祖となる。禅宗の肖像画はどれも同じように顰めっ面で描かれているものが多いが、臨済禅師の肖像画も同様に何かに怒っているような表情で描かれている。臨済禅師の禅風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈なものであり、唐の時代の禅僧である徳山宣鑑の「徳山の棒」とならんで「臨済の喝」と呼ばれ、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられたらしく。それが絵にも表されているといったところだろうか

臨済の語録としては「臨済録」がまとめられている。内容は例えば

  • お前たちは祖仏に会いたいと思うか。いまわしの面前で説法を聴いているお前たちこそがそれなのだぞ。しかし、修行者がそれを信じきれないが故に、外に向かって求め回るのだ。たとえ得ることが出来たとしても、それは全て文字上のことであり、決して活きた達磨の意ではない
  • 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親類に逢うては親類を殺せ。始めて解脱を得ん。

となかなかに熾烈な表現となっている。

もう一人の白隠禅師は江戸時代の禅僧で、これまでの上流階級のための禅を、広く一般の民衆へ広めたため臨済宗の中興の祖とも称される、民衆に教えを広めるために、冒頭のポスターの左側の達磨像のような禅の教えを表した絵を数多く描いていることでも有名で、自画像は以下のような感じとなり、臨済禅師と異なり飄々とした印象を与えるものとなっている。

また栄西が渡航した南宋で生み出された粉青色の美しい陶器である「青磁」や

同様に南宋時代に大きく花開いた白黒の世界である墨だけで描いた水墨画なども展示されていた。

絵画は言葉にならない情報を伝達するのに適したメディアだと思う。単純に画像特徴量が持つシャノンの情報理論的な情報量を考えると、白黒の絵画一枚ではせいぜい数百Mバイト程度となるが、それらが持つ抽象的な意味の世界まで解釈を広げると無限大の情報量となるだろう。

さらにその絵画が動く動画となると伝えられる情報量は増大する。以下のリンクはプロジェクトションマッピング等で著名なチームラボらよる同展覧会でのコラボレーション動画となる。

共に単純な絵画が墨書を超えた無限の世界をイメージすることができる。また、”アートとプログラミングに共通する美について“や”ジェネレーティブアートとプログラムとアルゴリズム“で述べたようにアートはデジタルの世界にも繋がる。禅とアートとデジタルがつながった世界の先に機械仕掛けの神はいるのかもしれない。

コメント

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