街道をゆく ニューヨーク散歩

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第39巻ニューヨーク散歩

前回は壱岐・対馬の道について述べた。今回は米国ニューヨークの旅について述べる。今回の旅はマンハッタン島を中心に行われている。司馬遼太郎一行はタクシーでマンハッタン島北端にあるインウッド・ヒルズを訪ね、その後アメリカン・インディアン博物館(現在ではインディアンととう名称は用いられずネィティブアメリカンと呼ばれているが、博物館の名称は変わっていないようである)とセントラルパークを訪ね、その後ブルックリン地区で、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“でも述べたブルックリン橋を作ったローブリング親子の事業を思いを寄せる。更に写真家のマーガレット・パーク・ホワイトとアメリカの機械文明について述べた後、プロスペクトパーク、ウィリアムズパークに向かい、アメリカとユダヤ人について考察した後、グリーンウッド墓地にて、幕末の日本で活躍した米国公使タウンゼント・ハリスの墓を訪れる。

その後、日本学が盛んなコロンビア大学で日本学の巨匠であるドナルド・キーン教授の退官式に出席、この大学の日本学の祖である、角田柳作教授の生涯に思いをはせる。最後に一行は、コニーアイランドとブライトン・ビーチを訪れ、人間の思想やアイデンティティについて考えを述べている。

ニューヨークは、アメリカ最大の都市であり、世界の政治・経済・文化・ファッション・エンターテインメントなどに多大な影響を及ぼす中心地でもある。漢字の当て字は紐育市紐約市などになる。

ニューヨーク市は、アメリカ合衆国北東部の大西洋に面し、巨大なニューヨーク港を持つ。市はブロンクスブルックリンマンハッタンクイーンズスタテンアイランドという5つの行政区(バロウ、ボロウ)に分けられる。

ニューヨークは1624年にオランダ人の手によって交易場として築かれた町であり、この入植地は1664年までニューアムステルダムと呼ばれていたが、イギリス人の支配が始まり、イングランド王ジェームズ2世(ヨーク・アルバニー公)の名を取って「ニューヨーク」と名付けられた。

19世紀には、ニューヨークは移民と開発によって大きく変貌している。特に”街道をゆく アイルランド紀行(2) アイルランド“に述べているようにアイルランドからの移民が大量に流入、更に南北戦争(1861-1865年:日本では幕末の時代にあたる)後、南部で解放されたアフリカ系アメリカ人が大量に流入し、1916年までに、ニューヨーク市に住むアフリカ系都市移住者は北アメリカで最多となっている。

ニューヨーク市はニューヨーク州の南東部に位置し、ワシントンD.C.ボストンマサチューセッツ州)のおよそ中間に位置しており、緯度は日本での青森市、中国の北京、トルコのアンカラ、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べたスペインのマドリードとほぼ同じ位置となる。

ニューヨーク市はハドソン川の河口にあり、ハドソン川は、天然の港に流れ込み、さらに大西洋へつながっており、ニューヨークの交易都市としての発展に貢献してきた。ニューヨーク市の大部分はマンハッタンスタテンアイランドロングアイランドという3つの島の上にある為陸地面積が狭く、人口密度が高い原因となっている。

今回の旅はこのニューヨークの中でマンハッタン島を中心に行ったものとなる。

マンハッタン島は、西をハドソン川、東をイースト川ハーレム川、北をスパイテン・ダイヴィル川(およびハーレム川運河)、南をアッパー・ニューヨーク湾によって囲まれている。幅は約4 km、長さ約20 kmで、ほぼ南北方向に細長い形状をしている島となる。

マンハッタン島は1枚の岩盤から構成されており、島の大部分を構成している基盤岩はマンハッタン片岩 (Manhattan Schist) と呼ばれる雲母結晶片岩となる。この岩は強度が高く、その構成成分の変成岩パンゲア大陸が形成された過程で作られてたとされている。この岩盤上は高層ビルの建設に適しており、ダウンタウンミッドタウンの表面はこの岩石に富んでいるためこれらのエリアには高層ビルが多く建ち並んでいる。また、セントラルパークにはマンハッタン片岩の露頭があり、ラット・ロックはその一例となる。

司馬遼太郎一行は、まずマンハッタンでセントラルパーク以外の自然が残る領域、インウッド・ヒル・パーク(Inwood Hill Park)に向かう。

このエリアは17世紀まで先住民のレナペ族が住んでいたところで、祈りやメディテーションなどが行われる聖なる場所「The Circle」や、彼らがキャンプに使っていた岩場の「インディアンケイブ」などがあり、さらに、1626年にオランダ人が先住民からマンハッタン島を買い取ったといわれる場所「Shorakkopoch Rock」などがある。

インウッド・ヒル・パークから南下し、マンハッタン島中央にあるセントラルパークを訪ねる。

セントラルパークは1850年代から1860年代にかけて人工的に造園されたもので、流れをせき止めて人工的に造られた8つの湖と池、いくつかの樹木帯、芝生、牧草地及び小さな草地、21の児童の遊び場と、6.1マイル (9.8 km) の道路がある都市公園となる。

一行はそこから更に南下し、マンハッタン島の南端とブルックリン地区を結ぶブルックリン橋を訪れる。

ブルックリン橋はアメリカで最も古い吊橋の一つであり、同時に鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊橋でもある。14年の歳月をかけて1883年に竣工・完成したもので、ドイツ系移民のローブリング親子により設計・施工されたものとなる。

ブルックリン橋は、2層に分かれており、現在でも上層は人や自転車が歩いて渡ることができる。下層は片側3車線の車道となっている。この橋はゴシック風のデザインともあいまってニューヨークの観光名所のひとつになっており、休日にはよく橋の上をランニングする人々を見ることができる。

次に一行は、ブルックリン橋を渡り、グリーンウッド墓地に向かいタウンゼント・ハリスの墓地を訪れる。

タウンゼント・ハリスは、1856年7月、アメリカの最初の駐日代表として来日した人物となる。

彼の任務は日本との通商条約の調印だったが、条約締結に消極的だった徳川幕府は、江戸に出ることを希望するハリスを下田に押しとどめ、下田奉行と交渉するよう指示する。ハリスはやむなく幕府から提供された玉泉寺に総領事館を開設するが、翌年には晴れて江戸出府をゆるされ、麻布の善福寺を米国公使館としている。

公使となったハリスは長い交渉の末、1858年、日米修好通商条約の調印にこぎつけます。当時の日本は西洋風の法体系を持たなかった為、治外法権を認めざるを得なかったが、ハリスはその他の規定では日本に不利になるような条項は設けず、ハリスは日本人について 「喜望峰以東で最も優れた人民」と日記に書き残しており、日本に対して好意を持っていた。

通訳のヒュースケンが殺害された際も、イギリス公使に宛てた手紙の中で、「日本政府に早急な措置を求めるのは無理であり(中略)、自分はキリスト教文明の到来とともに起こる侵略が日本では発生しなかったという事実を歴史に残したい」と述べ、日本に対する深い理解と話し合いによる解決という誠実な対応を求めている。

こうしたハリスの態度は日本側でも認識され、ハリスが1862年に帰国する際、幕府は留任を希望する書簡をセワード国務長官に送っている。ブルックリンのグリーンウッドにあるハリスの墓には彼が結んだ条約は「アメリカ国民だけでなく日本国民にも満足を与えた」と記されている。

その後、一行はマンハッタン島に戻り、ブロードウェイにあるコロンビア大学に向かい、今回の旅の目的の一つであるドナルドキーンの退官式に出席する。

ドナルド・キーンは世界的な日本文化研究の第一人者となる。彼が教えていたコロンビア大学は、早くからアジア地域研究を重視し、数多くの日本研究者を輩出した大学となる。1928年には角田柳作により日本文化研究所が設立されており、ドナルド・キーンは同研究所で教育を受けたのちコロンビア大学で長く教鞭をとり、多くの日本研究者を育てた。

また、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹はコロンビア大学助教授在職中の受賞であり、1950年代には”瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べている鈴木大拙が長期滞在し、禅思想の教育、研究を行い、米国における東洋思想の重要な発信拠点ともなっていた。

次回はオランダ紀行について述べる。

コメント

  1. […] 次回は米国ニューヨークの旅について述べる。 […]

  2. […] 第35巻より。 前回はニューヨーク散歩であった。今回は「まことに世界は神が作り給うたが、オランダだけはオランダ人が作ったということがよくわかる」と司馬遼太郎が述べているヨーロッパの中でも、いちはやく自律主義や合理主義、近代的な市民精神を確立したオランダの旅となる。 […]

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