因果と禅と哲学と

哲学:philosophy

life tips & 雑記 旅と歴史 禅と人工知能/機械学習とライフティップ 本ブログのナビ

因果と禅と哲学と

因果(いんが)は、ある事象が別の事象に影響を与える関係を指し、因果関係は、物理学や科学、心理学、哲学などの分野で研究されているものとなる。因果関係は、原因が結果を生み出し、結果が原因を生み出すという相互の関係を持つとされている。

禅(ぜん)は、中国の禅宗(ちんしゅう)や日本の禅宗(ぜんしゅう)などの仏教の一派であり、瞑想や座禅(ざぜん)などの実践を通じた直接的な体験で真実を悟り、直観的な洞察を得ることを目指す宗教となる。

哲学(てつがく)は、人間の知識や存在、道徳、真理などを研究する学問分野であり、論理的思考や批判的思考を用いて、抽象的な問いに取り組みむもので、古代ギリシャ哲学や西洋哲学、東洋哲学などの様々な伝統を持ち、形而上学、倫理学、認識論などの分野があるものとなる。

因果のアプローチは論理的な分析や科学的な手法を重視し、禅のアプローチは直感や直接体験を重視する。また哲学では人間の体験を中心にしつつもそれらの論理的な分析を重視するなど、それぞれ異なる異なる視点を持つ異なる領域の概念であり、異なる文化や学問分野に関連しているということができる。

しかし、禅の実践や禅の洞察は、因果関係についての哲学的な考察を促すこともある。禅の実践においては、直接的な体験を通じて、物事の表面的な因果関係を超越し、直観的な洞察を得ることがあり、これにより、因果関係に対する従来の概念や論理を超えた新たな視点や理解が生まれることがある。また、禅の実践を通じて、心の働きや心の因果関係についての深い洞察を得ることができ、哲学的な問いに対して新たな視点を提供することもある。

また、禅の実践や禅の洞察は、哲学的な問いに対する直接的な体験的な回答を提示することもある。禅の修行は、概念や言葉にとらわれずに直接的な体験を追求するため、言葉や概念による説明が限定される哲学的な問いに対して、直接的な体験を通じた実践的な洞察を提供することがある。これにより、哲学的な問いに対する新たな視点や深化した理解が生まれることもある。

今回は特に因果と禅の関係について考えてみたいと思う。

以前、機械学習の観点で因果について述べた。チョコレートの消費とノーベル受賞のデータの相関が見えるが、現実問題として考えるとチョコを食べてノーベル賞が取れるものとは考えられず、別の要因の影響でたまたまそのように見えているではないかという話だ。この「因果」は仏教や哲学の世界でも重要なテーマの一つとなっている。

例えば、禅の世界では因果に囚われることは煩悩の一つとして捉えられていて、網の目のように関係している因果(そもそも現実世界の因果は単純なものではないという前提)に対して、それを全て理解しようとしたり、一部のものだけを主観的/感情的に抽出して強調したり、理解できないものに無理矢理意味を与えようとせず、意識的に無視すべきという教えがある。(不落因果)

ただし、因果が全く必要無いかと言われるとそうではなく、例えば哲学の世界では、物事の因果関係の存在により、それが何であるかを意味することが定義されるという因果意味論が議論されている(哲学がわかる因果性)。

なんらかの拠り所により物事の意味が定義されるという概念はソシュールの構造主義による言語の解釈にも見られ、因果を完全に無視すると、人が何かを認識するという当たり前の行為すらできなくなることを示している。(ソシュールと言語学)

禅の説話の中でもこの因果に対する解釈は議論されており、例えば、禅の有名な公案である『無門関』の「百丈野狐ひゃくじょうやこの中に、「不落因果」と答えて野狐の身に堕ち、「不昧因果(いいんがをくらまさず)」と聞いて野狐の身を脱する男の話が述べられているが、これこそ正に因果を完全に無視するとモノの認識が出来ない獣になり、因果に囚われないことにも囚われない(因果の存在も認める)ことで人になれる(モノの認識ができるようになる)と言うことを示す因果意味論でもあると言えるのではないかと思う。

因果に囚われても無視してもいけないって、どうすれば良いのか?というと、例えば「日日是好日」に表されるように、因果に落ちない独立した一日一日を楽しみながら生きるお気楽人生のあり方とか、鎌倉時代の武士道の言葉で有名な「人間、到る処青山あり」で表される、今を充足して生きていれば、いつどこで死んでもよいと言う覚悟を持つあり方等様々な生き方が提唱されている。

以前「無可不無可」で述べたように、無限の可能性のある未来に向けて思いを馳せながら「今」に最大限没入して楽しみつくす生き方が出来るとベストなのだろう。そのためには今自分が背負っている役割に100%没入してそれを遊んでしまえることが重要だと禅の世界では語られている。

人は無数の抽斗(ひきだし)のあるタンスのようなもので、そこにある抽斗全てを可能性として持っている。普段の生活ではこの抽斗をいくつか開ければ事足りるが、チャレンジ精神を持って背伸びして高い抽斗を開けたり、遠くのひきだしを開けたりすることが自己を拡張し、無限の可能性を楽しむことにつながる。

人生、日々修行なのだ。

コメント

  1. […] 因果に関しては、哲学や禅などでもテーマとして取り上げられている。それらはまた別の機会でも書いてみたい。今回のような統計的アプローチに関しても別の機会に実際のユースケースについてもう少し具体的に述べてみたい。 […]

  2. […] このように科学的な思考とは、単に静的にこれらの基準を満たすものではなく、動的に変化して常に改善されていくものになる。この辺りの考え方は以前述べた禅の思想に近い。 […]

  3. […] 因果と禅と哲学と […]

モバイルバージョンを終了
タイトルとURLをコピーしました