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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
今回の旅は、台北から、作家の陳舜臣とともに官邸に招かれ李登輝総裁と会う。台北のまちを歩きながら、この地と関わりのあった日本人のことを考えつつ、新竹のシリコンバレー、山中の景勝地・日月澤などを訪れ、嘉南平原にある「鳥山頭水庫」で、ダム工事を指導した八田興一の銅像と夫妻の墓碑を見る。高雄から台南へ。大航海時代のオランダ人が建てた赤崁楼とゼーランジャ城をみて、担仔麺(たんつうめん)を食べながら彼らの活躍ぶりに思いを描き、その後に歌舞伎「国姓爺合戦」で有名な鄭 成功(ていせいこう)の生涯について考える。
さらに高雄から新営へと足を伸ばし、嘉義市南郊で、北回帰線の標柱と二・二八事件の記念日を見たあと、高雄から台東へ。フィリピンから日本に向けて北上する黒潮にふれ、柳田国男の海上の道を思う。東部の台東と花蓮では「高砂族」の生活や日本統治時代の街の名残を見ていく。旅は基隆、台北まで続いた。
台湾は、海を隔てて東北に日本、南にフィリピン、北西に中華人民共和国の位置にある日本の九州よりやや小さい島となる。
台湾は長年の移民により多民族が共生する地域となっており、現在は元々台湾に住んでいる台湾原住民の他に、漢民族系の閩南人・客家人・外省人や、日本人・オランダ人・ポルトガル人・スペイン人など様々な民族が住んでいる。
中華民国としての事実上の首都は台北市であり、新北市・桃園市・台中市・台南市・高雄市などの5つの直轄市と合わせて「六都」と呼ばれ、台湾の大都市圏を構成している。台湾の経済は半導体・ウェハー・ビデオカード・CPU・ノートパソコン・スマートフォン・人工知能をメインとして、ハイテク・IT産業・電子工学の分野で世界の最先端となっている。台湾製品は世界シェアの多くを占め、毎年世界から巨額の資金を吸収しつつ、中国・日本・スイスに次ぐ世界第4位の外貨準備高を有している。
公用語は中国語の一種である「中華民国国語」と呼ばれる言語であり、中国大陸(中華人民共和国)の中国語「普通話」とは違いがあるが、基本的には言葉が通じる。しかし、普通話と中華民国国語の最大の違いは「漢字」にあり、中国では「簡体字」を使う一方、台湾では従来の「繁体字」を使う。繁体字は日本語での「旧字体」に当たるが、字体や用字法は異なる。
台湾は、16世紀にヨーロッパの船が到来するまではそれほど注目されず、それ以前では記録に表されるのは元の時代からで、その後も船舶の寄港地や倭寇の根拠地として海岸沿いの一部都市が利用されるのみであった。
最初に台湾を訪れたヨーロッパ人は”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“でも述べている大航海時代に入ったポルトガル人で、その時に台湾の美しさに感動して発した言葉「Ilha Formosa(イーリャ・フォルモーザ=美しい島)」が、欧米諸国を中心に使用される台湾島の別称、フォルモサ(Formosa) になっていった。
その後”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“で述べているスペイン人が台湾北部に入っている。最初に台湾の領有を宣言したのは”街道をゆく オランダ紀行“でも述べているオランダで、台湾南部に要塞を築いている。
台湾の名称は、台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。
その後中国本土では、1644年徳川幕府の初期の時代に、元の後に成立した明が満州の女真族が作った清に征服されるという動きが起こり、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢が海を渡り、台湾に進出1662年に台湾からオランダ勢を駆逐することに成功する。
鄭 成功(てい せいこう、チェン・チェンコン)は、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“で述べている平戸で、明国人である父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれ、日本名も田川福松というものを持っている人物となる。
鄭 成功は、中国・台湾では国民的英雄として描かれており、国姓爺(こくせんや)とも呼ばれている。日本でも近松門左衛門により、鄭成功をモデルに「国性爺合戦」が書かれ、浄瑠璃や歌舞伎の演目として上演された有名な人物となる。
鄭 成功は1662年、志半ばで病死し、その後彼の息子たちが「反清復明」の活動を行うが清朝の攻撃を受け、1683年には降伏している。なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しなかった。
清は鄭氏政権を滅ぼすために台湾を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾を領有することに消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。
ただし清は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかったために統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。
その後、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、大清帝国の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、さらにはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったため、台湾では内乱が相次いでいた。
なお、大清帝国は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。
その後1895年に、清が日清戦争に敗北したため、台湾は遼東半島、澎湖諸島とともに大清帝国から大日本帝国に割譲された(露仏独三国干渉により遼東半島は清に返還)。これ以降、台湾は日本の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。
日本の台湾統治では、「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬萊米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
また、台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり日本国民になるかを選択させ、また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止とた。さらに、当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていたのを後藤新平が近代的な上下水道を完成させ改善させた。
街道をゆくの中でも、この台湾でのの事業の話として、八田與一が烏山頭ダムと用水路(嘉南大圳)を建設し、この八田の功績に対して、烏山頭ダムの湖畔には地元住民によって建設された八田の銅像があることが述べられている。
その後太平洋戦争が起き、1945年の日本の降伏後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のため、蔣介石率いる中華民国国民政府の軍が1945年10月17日に約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸した。
中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行や強盗事件が頻発し、公署と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公署と政府軍に反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きる。二・二八事件以降、政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、徹底的に弾圧した。1949年に蔣介石が国共内戦で敗れた兵隊、崩壊状態にあった政府を台湾に移した。そこで本土から来た中華民国軍兵士の強奪、官吏の腐敗ぶりには目に余るものがあり、軍の占領後間もないころから、本省人は新たな支配者に失望し始め、「犬が去って、豚が来た」と嘆くようになっていった。こうように、大陸から台湾に逃れた数十万の軍人を養うためにも大規模開発が必須であったことから、大陸から運び込んだ莫大な資金を用いて開発が行われ、台湾経済は軽工業から重工業へ発展していく。
一方、大陸を完全に掌握し中華人民共和国を樹立した共産党は、台湾攻略を目標とした金門島攻撃に着手したが、海軍及び空軍兵力に劣る人民解放軍は有力な制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる中華民国軍や台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破することができず、侵攻を放棄した。
共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蔣介石に種々の援助-美援(美国援助=米国援助)を与えた。ベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に突入することになる。また、現代では台湾の一人当たりのGDPは4万4821ドルで日本のそれを超えている。
1987年に戒厳令解除に踏み切った蔣経国(総統在職:1978年~1988年)の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出されている。
李登輝は、台湾生まれで京都大学で学んだ日本語世代であり、司馬遼太郎とも交遊があり、街道をゆくの中でも司馬遼太郎と李登輝の会談が記載されている。
ちなみに李登輝も2020年には亡くなられている。
街道をゆくの旅では、台湾のシリコンバレー新竹(シンジュー)。
景勝地である日月澤。
「鳥山頭水庫」で、ダム工事を指導した八田興一の銅像と夫妻の墓碑を見て、台南へ向かい。オランダ人が建てた赤崁楼とゼーランジャ城をみている。
さらに高雄から新営へと足を伸ばし、嘉義市を訪れている。
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[…] 次回は台湾の旅について述べる。 […]