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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
第25巻より。 前回の旅はシルクロードと平原の歴史について述べた。今回の旅は、中国福建省(の古代名である閩(びん))の旅について述べる。前回の”シルクロードと平原の歴史“でも述べた様に、東洋と西洋を結ぶ通商の道としては、ユーラシア大陸を横断する絹の道と、大航海時代に開拓された海の道の2つがある。
今回の福建省(閩)は、このうち後者の海の道の交流の舞台となったもので、マルコポーロの東方見聞録にも登場する場所となる。また、古くは稲作の民にして漂流民でもあった越人のいた場所でもある。
司馬遼太郎は、まず上海に向かい、上海から飛行機で福建省の福州に入る。福州では福建省博物館で「独木舟」の木棺を見て、”法家と儒家 – 秩序と自由“でも述べている儒教の経典でもある「史記」での隣国”呉”との戦いでの様々なエピソードから生まれた4文字熟語(呉越同舟、臥薪嘗胆等)の生まれた”越”の国の古代に思いを馳せている。
福州では渡し船に乗り、焼畑民族のショー族が住む福湖村を訪れ、今は日本にしてか残っていない”天目茶碗”の故郷である徳化という町を経由して泉州へ。泉州ではイスラム寺院である清浄寺や仏教寺院の開元寺、出土した宋代の船を展示している海外交通史博物館を訪ね、泉州を舞台に繰り広げられた東西文明の交流について考える。
最後に訪れた厦門では、”街道をゆく 台湾紀行“でも述べた鄭 成功(日本の歌舞伎や浄瑠璃では「国性爺合戦」で有名)について思い、一時期廈門に逃れていた魯迅について思いを寄せて旅を終えている。
司馬遼太郎の街道を行く-閩(びん)の道はマルコ・ポーロの話から始まる。マルコポーロは12世紀から13世紀の中世ヨーロッパ(ヴェネチア共和国)出身で、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した「東方見聞録」で有名な冒険家となる。
彼が活躍した時代は、中国では”街道をゆく モンゴル紀行“でも述べているチンギス・カンが元を作り、日本では”街道をゆく 三浦半島記“で述べている鎌倉幕府であり、”街道をゆく 壱岐・対馬の道“でも述べている元寇で元が日本に侵攻しようとした時期でもある。
当時の日本は、”街道をゆく 佐渡の道“でも述べている様にそれまで貨幣としての価値は認織されていなかった金(ゴールド)に対して、“街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“や”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べている南蛮文化(ポルトガルやスペイン人)の到来により、金の貨幣価値が大きくクローズアップされ、大量の金が輸出されており、東方見聞録にも「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」などと記述され、「黄金の国ジパング」と呼ばれていた。
ポーロが中国に来た13世紀には、”シルクロードと平原の歴史“でも述べているように、陸の道であるシルクロードは閉ざされており、変わってイスラム航海者たちが南シナ海の沿岸(福建・広東)に蝟集して、東西の異文化の交流が行われていた。
マルコ・ポーロに関してはNetflixのマルコポーロでドラマとして放映されている。
今回の旅は、その福建の泉州(ザイトン)を訪れ、さらに古代日本に稲作を伝えたルーツ(であろうと司馬遼太郎は考えていた)である揚子江の河口の呉越及び閩越(古代福建のインドシナ系民族)について考えるものとなっている。司馬遼太郎は、まず上海に向かい、上海から飛行機で福建省の福州に向かう。
福建は、古代閩人の領域であり、戦国時代に楚に滅ぼされた越王族が閩に逃げ込んだため、閩越と呼ばれていた。古代閩人は後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われ、インドシナ民族。あるいはマライ・ポリネシア民族であったと言われている。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。日本への稲作の伝搬もこの揚子江流域から行われたと考えられている。
越は、”問題解決のルーツ- 孫子について“に述べている春秋時代に隣国の呉とたびたび抗争し、呉を滅ぼしたが、最終的には楚によって滅ぼされている。『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたとされている。
これに対して、「魏志倭人伝」によると卑弥呼の時代の日本人も「水にもぐって魚や貝をとる民族として紹介されている。しかも身に文していた。文身していたのは水中で大きな水棲動物に出遭ったときにおどすためだ」と記載されている。これを比べると、越人と古代日本人は酷似していることがわかると司馬遼太郎は述べている。
福建は、山地が海に迫り、耕地が少ない地形であるため、人口密度が過剰状態となり、海上貿易が盛んであった事もあり、福建の開発が一段落すると、更なる飛躍を求めて海外に移住する者が後を絶たず、現在の台湾の本省人や東南アジア華僑の多くは福建からの移住者の子孫であると言われている。
街道を行くの中で、司馬遼太郎は日本の漢字と福建の関わりについて述べている。
日本の漢字の字音(漢字の音じ方)には、呉音と漢音があり、「正月」を「しょうがつ」と読む読み方は呉音となり、「せいげつ」と読む読み方は漢音となる。中国では、三国志の時代の後、隋唐帝国の成立まで長く不統一状態が続き、揚子江流域に興亡した六朝の文化が最も高く、その地方は「呉」と呼ばれており、呉音はこの呉の国の代表的な音であった。
日本に漢字が伝わったのは、五、六世紀の頃朝鮮半島の百済からで、当時百済は六朝(呉)と黄海を面して交流しており、日本に伝わったのも最初は呉音からとなる。また、百済からは同時に仏教も伝えられた為、仏教経典は呉音で読むことが主となっていった。
その後、隋唐帝国が成立し、政権が漢民族のいる北部に移っていき、字音も漢音が主流となっていく。その時代に日本は、遣隋使、遣唐使等の交流を行い、漢音を新音と呼んで積極的に学ぶようになった。
奈良時代のある時期に、朝廷では「漢音で統一しよう」としたらしいが、前述のように仏教界では呉音が主流であったため、”興福寺と武芸の聖地“でも述べている興福寺等の大寺の僧侶団の反対により呉漢併用となり、例えば「元日」を「げんじつ」と漢音で呼んだり、「がんにち」と呉音で読まず、「がんじつ」と呉と漢が混ざった読み方も許容されるようになった。
日本では九世紀末(平安初期)、遣唐使派遣の廃止により中国の音の流入が止まり、唐の長安の音か、六朝(呉)の音を使うことで漢字の運用は固定されていった。その後、平安末期から室町にかけての対中貿易や”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“でも述べている禅宗の輸入のために、宋や元の音も入ってきたが、「暖簾(のれん)」「蒲団(ふとん)」「椅子(いす)」「饂飩(うどん)」等の熟語の読み方のみで、日本の字音に影響は与えなかった。
それに対して、中国では、権力の交代、首都の移転などにより激しく音が変わり、例えば中国の最後の王朝は、北京に京都する清で、この王朝の主体は漢民族ではなく、東北(満州)地方の満州ツングース族(女真族)であり、その言葉は中国語とは全く異なるアルタイ語族に属する為、アルタイ語特有のK発音ができない影響を受けて、例えば「人民解放軍」の解(かい)が解(チェ)になり、軍(ぐん)が軍(チュン)になり「レンミンチェファンチェン」などと発音するようになっていった。
ちなみに、日本の東北地方も「今日(きょう)」を「チョウ」と呼ぶ地方があるなど、ツングース文化の影響を受けていると言われている。
福建省では、これに対して清以前の古音が残っており、日本語の字音と似ていると言われており、先ほどの「人民解放軍」の読みは「ジンミンカイフォングン」となり、日本語の発音にかなり近い。
ここで街道を行くの旅に戻る。福州では渡し船に乗り、焼畑民族のショー族が住む福湖村を訪れ、今は世界に3個してか残っていない”曜変天目茶碗”の故郷である徳化という町を経由して泉州へ向かっている。
「曜変天目」という茶碗を上から覗き込むと、漆黒の空間のなかに瑠璃色の宇宙が広がり、そこに星紋と呼ばれる星のような斑紋が見えてくる。しかも、その宇宙はただ瑠璃色に発色しているのみならず、見る角度によって鮮やかな色彩が交錯し、幻想的な戯れを惹き起こす。見れば見るほど夢幻の世界に引き込まれる神秘の茶碗——それが曜変天目となる。
天目茶碗はふつう窯で焼くと黒や褐色に発色する。ところが、何らかの条件が整ったとき、ごく稀に美しい瑠璃色を生み出す。これは意図して出そうとしても容易に実現することのできないもので、人智を越えた自然の奇跡ともいうべきものなのだが、意外なことに、生産地の中国では必ずしも高く評価されていなかった。
天目茶碗がこんな風に“変色”してしまうのは不吉なことが起こる前触れだとして、生じたらすぐに壊され、わずかに破棄を免れたものだけが日本に伝来したと見られてきたのである。
この曜変天目の魅力は時代を超越し、稀有な美に魅せられた何人もの陶芸家が曜変天目を現代に蘇らせようとしてきたが、未だ実現されていない。日本国内では大阪にある藤田美術館、”街道をゆく 京都の名寺と大徳寺散歩 – ダダと禅と一休“で述べている京都の大徳寺の塔頭龍光院、”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“で述べている滋賀県甲賀市にあるMIHO MUSEUMの3箇所で見ることができる。
旅の終わりは、経済特区として大きく発展した福建華僑のふるさとの街である厦門(アモイ)を訪れ
廈門はアヘン戦争では1841年(道光21年)にイギリス軍により占領され、1862年(同治元年)にイギリス租界が、1902年(光緖28年)には鼓浪嶼に共同租界が設置され、外国商社の商館が進出し、旧市街に残っている異国情緒あふれる街並みを望んで旅を終えている。
現在では、廈門は中国有数の南国リゾートとしても有名になっている。
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