関西弁と他力の思想としての歎異抄

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サマリー

「街道をゆく」の旅の中にも度々現れる親鸞の言葉を残した「歎異抄」について述べる。

「歎異抄」は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の言葉を、弟子の唯円がその死後に、成人の教えが歪められ、異なっていくことを憂い、歎じて、それを正すために書いたものといわれている。親鸞聖人のこど歯を、耳に残るものとして直接話法で書いた部分と、その教えとなった”現状”の異論、異端の説に唯円が反駁している部分とからなる。

親鸞の教えは、法然が始めた専修念仏の浄土門の教えを、もっと庶民的に、一般人に向けて押し広げたものとなる。難しい仏教の経文や解釈を勉強し、困難で難しい修行の末に、ようやく悟りを開いて、覚者、ブッダ、如来の存在する浄土へ行くことを「往生(おうじょう)」といい、そうした境地に達することを目指して修行することを菩薩行(ぼさつぎょう)という。しかし、一部の極めて学問熱心な僧侶や、荒業にも耐えうる克己心を持った修行僧にしか、そうした往生が可能でないとしたら、一般庶民としての「凡夫(普通の人)」には、往生は絶対に無理ということになる。

浄土門の教えは、「浄土三部経」(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に書かれている、阿弥陀如来がまだ菩薩行の修行時代に、自分自身が悟りを開いた「ブッダ」になるための願い(本願)として、「ありとあらゆる人々(衆生)が、本当の悟りを開いて、真実の往生を遂げるまでは、私もブッダ=覚者=如来になることはない」と誓った言葉に絶対的に帰依することで、学問や修行や戒律を守るといった、普通の人々にとって実行するには難しい方法ではなく、優しい方法(易行)として「南無阿弥陀仏」(当時は「ナモアミダブチ」と発音したが、現在では「ナムアミダブツ」と発音する。これが訛って「ナンマンダブ」「ナンマイダ」となる)「阿弥陀如来に帰依します」ということだけを称えれば良いというものになる。(「南無(ナーム)」は帰依しますという意味の称え言。サンスクリット語=梵語に由来する)

親鸞聖人の教えは、法然聖人の、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と称名すればよいという浄土宗の教えから更に先に進み、すべて自分の力で行う修行や持戒(じかい:戒律を守ること)を否定して、完全な「他力」(反対語は「自力」)、すなわち一心に「南無阿弥陀仏」の救いを願うことだけに専念するというもので、善行を積むとか、悪行を行わないといった一般的な道徳や倫理からも超越したものとなる。

よって、親鸞聖人は、当時の仏教僧としてはタブーであった「肉食妻帯」、すなわち動物や魚の肉を食べたり、女性と結婚したりするということを禁じた教えに反し、それらのタブーを排することを自ら実践した。

親鸞聖人は、阿弥陀如来の「本願」に絶対的に帰依する「浄土真宗」の教説をまとめた「教行信証」という主著を残した。これはさまざまな仏教経典から博引旁証し、先人たち(法然など)の教説を解釈した難解な思想書となるが、同朋(信仰を同じくする者たち)の信者には、そうした経文のエッセンスとしての口語的な「和讃」を称えさせ、さらに弟子たちには、平易な口調で、その「悪人正機説」などの浄土真宗の根幹となる教えを説いた。それが「歎異抄」として残ったもので、現在伝わっている最も古いテキストは、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如が書き写したものとなる。

光文社古典新訳文庫の「歎異抄」は、これらを以下のような関西弁に訳したものとなる。

「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。「ホトケはんやお寺さんへのおフセが多い少ないで、大きなホトケや小っさいホトケになるんやいうのは、こりゃあ、ケッタイな説や」

関西弁での歎異抄は、そこに親鸞や唯円がいて直に語られている感覚が得られる。後述の釈徹宗にも、宗教の言葉は、本来は「語り」の中にあり、またその語りが身体化する性質を持つとある。このような言葉を自分のものとして声に出して読むことで、生きていく中で、たとえば絶体絶命のピンチに陥ったと感じる瞬間に、それらの言葉が浮上してきて助けてくれると述べられている。

次に紹介するのが、NHK qoo分de名著での「歎異抄」となる。

こちらは宗教思想を専門とする釈徹宗によるもので、「他力の思想」としての歎異抄について、哲学的/思想的な解釈が述べられている。

釈によると、歎異抄は、人の内実へとズバッと切り込む、切れ味鋭い金言や箴言(しんげん)にあふれ、さらにそれまで人々が漠然と抱いていた宗教や仏教のイメージをひっくり返す力を持っており、我々の常識を揺さぶるような逆説的な内容や思想がいくつも書かれており、多くの知識人を魅了してきたらしい。

そのような知識人として、たとえば西田幾多郎、第二次世界大戦の末期に「自分は「臨済録」と「歎異抄」さえあれば生きていける」と周囲に語っていたり、司馬遼太郎や吉本隆明、遠藤周作、梅原猛など多くの知識人が歎異抄に惚れ込んでいる。

近代になり、日本の知識人たちはキリスト教文化圏からの哲学・思想に触れ、そこに、人は生まれながらに罪を背負っているという「原罪」の感覚が深く浸透していたが、過去の日本の思想や宗教には、あまりそうした性質のものが無かったのに対して、親鸞の思想には、西欧の近代知性ともがっぷり四つに組める罪悪観が備わっていたことを、明治以降の思想家や哲学者が見出していた。

また、知識人だけではなく、市井の人にとっても歎異抄は人生の指針として用いることができるものだと述べられている。

本書では以下の4つのパートに分かれて、歎異抄についての解釈が述べられている。

  1. 人間の影を見つめて
    • 「歎異抄」の謎
    • 信心のないものには読ませるな
    • 親鸞とその思想
    • 往生をばとぐるりと信じて念仏申さん
    • この慈悲始終なし
    • 親鸞は弟子一人ももたず候ふ
    • 自分の影を凝視し続ける
  2. 悪人こそが救われる
    • 親鸞思想の最大の逆説「悪人正機説」
    • 念仏は阿弥陀仏の働きである
    • 喜べない私だから救われる
    • 「はからい」を捨てよ
    • 念仏は仏の叫び声
  3. 迷いと救いの間で
    • 意義を正す「歎異篇」
    • 「造悪無礙(ぞうあくむげ)」と「専修賢善(せんじゅけんぜん)」
    • 状況によっては、どんなことでもしてしまう
    • 唯円という、たぐいまれな語り手
    • なかなかすっきりしない道
    • 回心・辺地・お布施について
    • “リミッター”としての「歎異抄」
  4. 人間にとって宗教とはなにか
    • 「信心」は一つである
    • 「大切の証文」とは何か
    • 親鸞一人がためななりけり
    • 「宗教儀礼」という装置
    • なぜ「歎異抄」は読み継がれるのか
    • 「流罪記録」、そして宗教とは

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