街道をゆく播州揖保川・室津みち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第9巻播州播磨の道

前回の旅は新潟県、潟のみちであった。今回は姫路城で有名な兵庫播州揖保川・室津みちとなる。播州は戦国時代の軍師としても有名で、竹中半兵衛とともに「両兵衛」と呼ばれた黒田官兵衛が活躍した播州の旅となる。黒田官兵衛が一時居城としていた山﨑を訪ねるため、揖保川沿いに車を勧め、古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、山崎城のわずかな名残を見る。龍野では童謡「赤とんぼ」で有名な三木露風を心に浮かべ、揖保川を下り室津に出て、中世、外洋を航海した船や、四国に流される途上でこの地に立ち寄って法然上人に思いをはせる。

今回の旅は、”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“でも述べた国宝にも指定されている白鷺城としても有名な姫路城がある兵庫県の播州・播州揖保川・室津みちとなる。

播州で思い浮かぶものの一つに播州織がある。播州織は、江戸時代中期より兵庫県の北播磨地域で生産されている織物で、自然な風合いと豊かな色彩が特徴で、糸から染る先染めの綿織物としても知られている。

播州織の特徴は、まず糸を各種の色に染め上げ、この色糸を使って様々な模様に織り上げる先染織物という手法にあり、先染織物はカジュアルシャツなどに用いられるチェックやストライプの縞柄に代表されている(これに対してワンピースの花柄やプリントの生地は後染織物と呼ばれている)。

先染織物は、染色した糸が縦(経)と横(緯)に組織という法則に従って織られており、この糸・縞割・組織・密度を組み合わせることによって、様々なチェックやストライプなどの柄を生み出し、夏に涼しく羽織れる着心地の良い織物を作っている。

次に播州で思い浮かぶものとして、揖保乃糸と呼ばれる夏の風物詩そうめんがある。

揖保乃糸という名前は、揖保川流域で作られていることに起因し、播州でそうめんが歴史に現れるのは室町時代(約600年前)と古く、そうめんづくりが本格的になった江戸時代で当時は龍野藩の「許可業種」として奨励され、また伝統の「揖保乃糸」の産地化は、龍野藩が著名な産物の保護育成を始めた文化年間頃(1804年〜1818年)からだと考えられている。

揖保乃糸というブランディングは、そうめんを作る農家が増え生産量が伸びるにつれて、粗製乱造で産地の信用を落とす者が現れるようになった為、龍野藩・林田藩・新宮藩内のそうめん屋仲間が集まり、品質などについて取り決めを交わしたところから始まっている。

司馬遼太郎は黒田官兵衛を主人公とした「播磨灘物語」という時代小説を書いている。

また前述したように黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに「両兵衛」と呼ばれていた。雑談となるが、この両兵衛と「Ultra Soul」等のヒット曲で有名なロックユニットBzをミックスしてパロディ化したものが、「兵衛’z 」と呼ばれるユニットとなる。

この「兵衛’z 」は「戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜」という番組(続編で戦国炒飯というものもある)で作り出されたユニットで、「戦国鍋TV」は2010〜2012年にテレビ神奈川、千葉テレビ、テレビ埼玉、サンテレビというローカルテレビ局が作成したテレビ番組で 主に戦国時代の武将を主人公とした歌あり、ドラマありのちょっと癖のあるバライティ番組となる。の曲であるベー・アンビシャスはyoutubeでみることができ、その他にも戦国時代の有名な三姉妹である浅井姉妹をベースにしたAZAISM/浅井三姉妹によるアザイドロップ、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍隊をベースにしたSHICHIHON槍によるシズガタケの七本槍など楽めると思う。

本家の黒田官兵衛は、播磨の国(兵庫県)で生まれた軍師となる。当時の播磨国は、室町時代に将軍足利義教を暗殺して滅ぼされた赤松氏や、赤松氏追討後に播磨を承継し、応仁の乱の中心となった山名宗全など現れては消えていった後、多くの小勢力(豪族)が割拠する混乱の場となっていた。

黒田官兵衛の鎧は赤を中心としたもので、兜がお椀を逆さにしたような形であったことが特徴となる。この兜は黒田官兵衛が結婚するおり、舅となった櫛橋伊定から贈られたものといわれている。

当時の同じ播磨国の豪族たちは、隣国で勢力を誇っていた”街道をゆく – 芸備の道”でも述べた毛利元就の側につくことがほとんどであったのに対して、黒田官兵衛は毛利とは対抗する、織田信長の命により中国地方平定を行っていた豊臣秀吉に下り、自らの城を明け渡して山﨑城に移動した。 司馬遼太郎一行は現在は山崎城の痕跡はほとんど残っていいない山﨑に向かいそこで、黒田官兵衛に思いを寄せている。

黒田官兵衛はその後、織田信長が本能寺の変で倒れた後、広島にいた豊臣秀吉に対して、即座に京に戻ることを進言、中国大返しと呼ばれる10日間での大軍団の移動を実現し、秀吉の天下統一のきっかけを作る。

黒田官兵衛はその後”街道をゆく 中津・宇佐のみちと豊後・日田街道“で述べているように九州に居を移し、その子孫は福岡藩を作り明治維新に至る。

一行はその後、揖保川を下り龍野を経由して室津に向かう。龍野では童謡「赤とんぼ」の詩を作った三木露風に思いを浮かべ、浄土宗を立ち上げた法然が、四国に島流しに遭う時に立ち寄ったことに起因して作られた浄運寺に立ち寄り、旅を終える。

法然の唱えた浄土宗は、”仏教と経典と大乗仏教の宗派について“にも述べているようにこれまでの官製の仏教を庶民の視点におろし、ひたすら阿弥陀仏に祈り続けていれば、救いが得られるという他力本願の教えだが、法然は既存の勢力に対する敵対心は薄く、四国に島流しも身に覚えのない言いがかりにより喰らってしまったものだったらしい。

次回は高野山みちとなる。

コメント

  1. […] 街道をゆく播州揖保川・室津みち […]

  2. […] 第9巻より。 前回の旅は播州揖保川・室津みちであった。今回の旅は高野山みちとなる。高野山は空海の開創した山であり、司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南を超えて麓の九 […]

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