街道をゆく 中津・宇佐のみちと豊後・日田街道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

「街道をゆく」第34巻第8巻より。 前回は、甲賀伊賀信楽のみちについて述べた。今回の旅は大分県を中心に、全国に4万社余りあるという八幡神の故郷、大分県の中津宇佐と、温泉の街、由布院と九州の小京都とよばれる日田となる。

今回の旅前半は、まず宇佐八幡の前身といわれる薦神社(中津)を訪ね、三角池に自生する薦から古代へ想いを寄せている。ついで宇佐神社和間神社などに足を伸ばし、八幡神と渡来人の関係について考え、その後、中津に戻り、中津を故郷とする福沢諭吉の旧居を訪ね、諭吉の人間性を育んだ家族影響について述べられている。さらに中津周辺を巡って、安土桃山時代の武将、黒田如水中津自体について、また如水の後に中津の領主を務めた細川忠興について述べている。

全国に約44,000社ある八幡宮の総本社であり、石清水八幡宮筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つと呼ばれている。古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われていた

八幡神(やはたのかみ)は、もっとも早い時代に仏教に習合しており「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」とも呼ばれている。日本の津々浦々に多い神としては天神(天満)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、八幡宮はそれらを大幅に超えた数があると言われている。

八幡宮は十二世紀には、清和源氏の氏神となり、その家系の”街道をゆく – 三浦半島記“にも述べている源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、諸国の武士たちが八幡をまつるようになって大いに流行した。”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“に述べている十四世紀の倭寇もこの神を崇拝し、船ごとに「八幡大菩薩」と墨書した旗をたてたことから、明代の中国人は、これを八幡船(ばはんせん)と読んでいた。

「しまった」の意のかつての日本語は、”南無八幡”となる。また”八幡、堪忍ならぬ”という位言い方で「絶対に堪忍ならない」と言ったり、”八幡掛けて”ということで「まったく」とか「本当に」という意味の強意も示される使い方もされていた。

このような慣用句を見ていると、一神教の神(God)を使って、咄嗟の怒りや、相手への不信、あるいは驚き、絶望、苦痛などに使われるものと似ている。

大分宇佐は、この八幡の神の故郷であるとされている。八幡の神は、古代、宇佐で水田を開いた秦氏(三、四世紀頃、朝鮮半島から渡来した大族で、遠祖は秦の始皇帝であると称していた)が奉じていた農業神で、奈良時代は信託を下す神として天皇の宮廷に入り、そのはるかのちに源氏が氏神にして武神となった。

八幡の語源は、その昔、この神を祀るときに、たくさんのハタ(幡)を立てたからと言われている。古語における「や」とは、数多くのという意味があったらしい。幡とは棹から吊り下がっているノボリのことで、旗は、棹にその一辺が括り付けられているものを言うらしい。

八幡宮は、源氏が氏神にする前の時代(平安時代)に、道鏡という僧侶の野望のために一躍有名になっている。

道鏡は、”街道をゆく – 河内のみち“で述べた河内の出身で、「孔雀王呪経」などのインド発祥の呪術関係の経典を好み、当時の大和朝廷の中でそれらの呪術を、天皇や太后の為に使っていた。たまたま病気になった太后の病を呪術により癒したことから寵を得て、その頃権力を持っていた藤原氏や天皇を退け、政治に口を挟むようになった。

ここで、道鏡は実弟を九州に赴任させ、そこで宇佐神宮に影響を及ぼさせ、神宮から「おそれながら、信託(神のお告げ)があり、道鏡を皇位につけよ、しからば天下は鎮まるであろう、というものがありました」という信託を言上させた。

この神託を受けた当時の女帝が、それを確認するために側近の広虫に相談し、広虫の弟である和気清麻呂宇佐神宮に派遣し再確認したところ「無道の人(道鏡をさす)はよろしく掃き除くべし」との神託を持ち帰った。これを知った道鏡は激怒し、広虫和気清麻呂を流罪にしたが、翌年(西暦770年)女帝が崩じたところで、道鏡はもとの僧に戻され、和気清麻呂も都に戻されたという顛末となる。

この時の権力者(道鏡)にはばかることなく、それらを退ける神託を持ち帰った行為は、年をへるごとに評価され、宇佐神宮から神託を持ち帰ることは、天皇の即位事に行われ、また国家に変事あるときにも行われるようになった。

この八幡宮が、京都にも造られ、それが岩清水八幡宮となった。

源氏がいつごろから八幡信仰をするようになったかについては諸説があるが、源頼義が”街道をゆく – 陸奥のみち“でも述べている奥州の平定に向かったあと、鎌倉にしばらくいたときに由比郷に岩清水八幡宮から勧請して社を建てたのが始まりと言われている。その子義家岩清水八幡で元服し”八幡太郎“と通称し、その家系から出た源頼朝鎌倉幕府を起こしてほどなく、由比郷の八幡宮とは別に、あらためて京都岩清水八幡宮から勧請して鶴岡八幡宮を鎮祭した。

ただし、今の建物の形式が完成したのは、それよりもずっと後の室町時代であったらしい。

中津宇佐の旅はこの後、戦国時代の名軍師と言われた黒田官兵衛が作った中津城と、福沢諭吉が幼少期を過ごした中津にある福沢諭吉旧居を訪れて終わる。

次に訪れた大分県の街は由布院阿蘇くじゅう国立公園日田となる。九州の代表的な温泉街である由布院では、亀の井別荘に泊まり、途中にある九重高原長者原玖珠町によって日田へ行き、日田では、鵜飼や近世の名教育者である広瀬淡窓の史跡をまわっている。

由布院は、温泉湧出量、源泉数ともに全国2位の豊富な湯量を誇る有名な温泉街となる。

由布院では、各宿泊施設は町並みから外れた周辺の川端や林の間、丘の上などに点在した形となっている。湯量が豊富で広い範囲で湯が湧くため、旅館が一箇所に集積する必要が少なかったことから、一軒の敷地も比較的広く、町の造りはゆったりとしており、しかも開発規制により高層の巨大旅館・ホテルもなく、田園的な名残を残している温泉街となる。

由布院では、司馬遼太郎一行は”亀の井別荘“という老舗の温泉宿に泊まっている。

ここは、大正10年創業で、1万坪の敷地内に全20室の客室と非常にゆったりとした温泉体験を味わうことができる宿となる。

由布院を過ぎると、一行は阿蘇方向、阿蘇くじゅう国立公園に向かう。

阿蘇くじゅう国立公園大分から、熊本まで広がる広大な国立公園であり、”草原のかほり、火山の呼吸。風と水の恵みを人が継ぎ人が繋ぐ、感動の大地”と表現されている場所でもある。

ここでは一行は、阿蘇くじゅう国立公園内にあり、九重連山の登山口として広く知られている長者原(ちょうじゃばる)にあるリゾートホテルに泊まっている。

阿蘇くじゅう国立公園内には沢山のリゾートホテルが点在している。その中でも有名なものは星野リゾート界 阿蘇になるであろうか。

こちらの宿も約8000坪の敷地に全12棟の離れの客室は全室露天風呂付きという非常にゆったりとした温泉宿となっている。

阿蘇くじゅう国立公園熊本側は阿蘇カルデラがあり、阿蘇山の雄大な景色と火山観光を楽しむことができる。

長者原を過ぎて旅の終わりに向かうのは、九州の小京都と呼ばれる日田の街となる。日田は山間に江戸時代からの古い建物が残る街となる。

次回は、檮原(ゆすはら)街道坂本龍馬ら幕末の志士たちが土佐から伊予へ脱藩した道筋を巡る旅となる。

コメント

  1. […] 前回の旅は、大分県を中心に、全国に4万社余りあるという八幡神の故郷、大分県の中津・宇佐と、温泉の街、由布院と九州の小京都とよばれる日田であった。今回は「街道をゆく」第2 […]

  2. […] 黒田官兵衛はその後”街道をゆく 中津・宇佐のみちと豊後・日田街道“で述べているように九州に居を移し、その子孫は福岡藩を作り明治維新に至る。 […]

  3. […] 次回の旅は大分県を中心に、全国に4万社余りあるという八幡神の故郷、大分県の中津・宇佐と、温泉の街、由布院と九州の小京都とよばれる日田となる。 […]

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