街道をゆく – 河内のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第3巻 河内の道

前回肥薩のみちについて述べた。今回は河内のみちについて述べる。

河内のみち

今回は東大阪市在住であった司馬遼太郎にとってご当地である、大阪/河内の旅となる。河内地方は、古代日本の大和朝廷大和盆地(前回述べた竹内街道葛城みち)あったときの三輪王朝が衰弱した後に生駒山脈を超えて河内王朝に戻ったとして、応神仁徳天皇陵のような巨大古墳を生み出した王朝の地であると述べられている。

河内地方は沼沢が無数にあり、江戸時代前期の宝永年間(1700年頃)まではその状態のままだったらしい。それを徳川幕府が当時河内に流れ込んでいた大和川の流れを今の堺市の方向に変えたことで干上がった場所らしい。また、河内で有名なのは「河内弁」で二人称が「われ」疑問の終助詞「け」などが特徴のいわゆる「柄が悪い」言葉でもある。またそれらがふんだんに盛り込まれた1970年代のヒット曲「河内のおっさんの唄」も懐かしい。

河内のみちでは、河内地方のルーツについての話が続いた後に、この地にゆかりのある寺や宗教人の話が続いている。まずは以前葛城みちでも述べた役行者が開基した真言宗の寺である高貴寺に赴き、そこに安居したといわれる弘法大師空海真言宗について述べている。

司馬遼太郎によると、真言宗は即身成仏の体系だけにそのお経は聞いていてひどく陽気で、仏教独特の陰気くささがないらしい。たとえば死んで浄土へ往くという浄土宗浄土真宗阿弥陀経はその音調が、主題が主題だけにいかにも葬式くさく、生者に対し死者への哀悼を刺激して思わず涙をそそらせるようなものに対して、空海が始めた真言密教というのは即身にして宇宙に同化しようという不思議な思想となる。その同化は、映画の忍者使いがやっているように、印を結んだり真言を唱えるなどの様々な動作によって心をしだいに高めていき、やがては生き身のままで宇宙に融けるというもので、司馬遼太郎の説では、真言密教はおそらく仏教ではなく、インドバラモン教長安の都に入り込んでいたのを、当時長安にいた空海がそれに遭遇し、徹底的に体系化し、いわば液体を個体にしさらには結晶体に仕上げるような作業をして作り込んだものらしい。

更に詳しい思想的な内容に関しては、浄土宗に関してはパラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力にて、真言宗に関してはインターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教にて述べている。そちらも参照のこと。

高貴寺は、この真言宗の「」の行を行う律院(「律」は僧侶の生活規範のことで、その「律」をもって専門的に成立している寺を律院と呼ぶ)で、カトリックにおける修道院のようなものにあたり、寺としては僧侶を対象としているので、寺に余分な装飾もなく、規模も小さくて、観光料もとらないようなところらしい。

高貴寺では、この寺にいた慈雲尊者が書いた不思議な書や、さらに枝垂れ桜を眺めている

高貴寺を抜けて次に向かった場所は弘川寺となる。

弘川寺は、西行が晩年を過ごし墓がある所といわれている。西行は平安末期藤原体制が崩れて、保元・平時の乱での武家の台頭と、平清盛が勃興して平家一門の栄華の時代をつくり、さらに没落して、木曾義仲源義経の出没と活躍、そして源頼朝による鎌倉幕府の設立までを見てきた歌人で、元は北面(朝廷警護)の武士でもあった。

また、西行は前述の真言宗のすぐれた修道者でもあったらしい。

河内地方の著名人として有名なのは、楠木正成になる。

楠木正成は、鎌倉幕府を倒した河内ゲリラ隊の隊長であり、さらにその後、天皇制を復活させようとして、室町幕府を作った足利尊氏を中心とした武家政権勢力と争い戦死した「悪党」と呼ばれるローカル武士集団の頭領となる。彼の名は、明治維新から太平洋戦争集結までは日本史上最大の神聖英雄の座についていたが、太平洋戦争の終結と共にかれを賞賛した歴史観は戦犯的なものとして追いやられ、それと同時に教科書から消えていった。

その楠木正成が戦った場所として有名なものが、金剛山千早峠となる。

さらに河内の国にある著名なものとしてはPL教団がある。これは元来は、河内のはずれで発祥した新興宗教でかつては「ひとのみち」という名称だった。太平洋戦争時に弾圧を受け消滅したものが、静岡で復興し、名称も変わって完全な自由という英語の頭文字をとりPL教団という新呼称で再発足した。その後静岡からふたたび河内の富田林市に本部が移っている。PL教団としてよく耳にするのは高校野球PL学園になるだろうか。またランドマークとしてコンクリートの巨大な塔も有名らしい。

次回洛北諸道とスタスタ坊主山伏僧兵について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく – 河内のみち […]

  2. […] て知られており、鎌倉や室町幕府の時代には、彼らが山の中にうようよいたようで、前回の河内のみちでも紹介した楠木正成は、それら山伏組織を握っていたとも言われる。また、戦国 […]

  3. […] 街道をゆく – 河内のみち […]

  4. […] 道鏡は、”街道をゆく – 河内のみち“で述べた河内の出身で、「孔雀王呪経」などのインド発祥の呪術関係の経典を好み、当時の大和朝廷の中でそれらの呪術を、天皇や太后の為に使っていた。たまたま病気になった太后の病を呪術により癒したことから寵を得て、その頃権力を持っていた藤原氏や天皇を退け、政治に口を挟むようになった。 […]

  5. […] がら、一度は敗れて九州に落ち延びた尊氏が捲土重来、京都を再び占領し、”街道をゆく – 河内のみち“でも述べている楠木正成を破り、更に新田義貞も敗走させたのち、再び北 […]

  6. […] 紀州(和歌山県)と大阪南河内郡を隔てている山脈は、”街道をゆく – 河内のみち“で述べた生駒・金剛山脈、あるいは”街道をゆく – 葛城みち“で述べた葛城山脈、またそ […]

  7. […] 大森彦七は前回河内のみちでも述べた楠木正成を破り、自刃に追いやった人物だが、そのおかげで正成の怨霊に祟られた怪談が江戸時代に作られ人気を博したらしい。供養塔自体は上記 […]

  8. […] 次回は河内のみちについて述べる。 […]

  9. […] が「荘子」から創作への刺激を受けている。よく知られているところでは、”街道をゆく – 河内のみち“で述べている西行法師、”「方丈記」豊かさの価値を疑え“で述べて […]

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