街道をゆく- 仙台/石巻

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第26巻仙台・石巻より。

前回の旅は、京都西部の自然豊かな名所である嵯峨野への旅であった。今回の旅は仙台・石巻となる。大阪空港から仙台へと飛んだ司馬遼太郎は、機上から見る富士の後継に、奥州人がいつ富士を見たかと、歴史上幾度か興った東北の勢力の西上を思い返す。仙台南部の阿武隈川河口を訪ね、伊達政宗の造った運河「貞山堀」を目にした司馬遼太郎は、400年の時を経て静かに保存されている運河の佇まいに仙台藩の風儀の奥深さを感じ、さらに桃山文化の風を残す岩沼の竹駒神社、仙台の大崎八幡宮へ詣で、ここで大藩の骨太な文化を見出す。芭蕉の「奥の細道」に沿う様に、東北に歩を進め、多賀城跡では、古代から続く詩へのあこがれを思う。松島湾に臨む港町塩釜では、陸奥一宮であった鹽竈神社を訪ね、欧州の古風を感じる。松島では観光化されすぎ芭蕉への厳粛な敬意を失ったかに見える風を嘆き、最終点の石巻では目和山山頂から、政宗が改修させたさせた北上川を眺める。

宮城県は東北地方の南東部に位置する県であり、県内には仙台平野が広がり、北上川阿武隈川といった大河が貫流して流域に沖積平野が発達している。東は太平洋に面し、県中部にある松島は多島海の景勝地で日本三景の一つに数えられ、西は奥羽山脈に接し、栗駒山蔵王連峰などの秀峰がそびえる自然豊かな場所となる。

歴史的には、古墳時代からヤマト王権の勢力が及んでおり、大化の改新の頃(645年)には道奥国(みちのおくくに)、後には陸奥国(みちのおくくに)が設けられ、最初の国府が仙台市に設けられている。奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発していた。

それらに対抗するため、多賀城が大野東人により作られた。

大野 東人(おおの の あずまびと)は、奈良時代公卿・武人であり、彼は壬申の乱(672年に天智天皇の太子に対して、弟の大海人皇子が兵を挙げて勃発し、最終的に大海人皇子が勝ち天武天皇となったという日本では類を見ない内乱)での敗者側の将軍の子供で、官界では恵まれなかった為、家の窮地から這い出すために、辺境での任務に志願したとも言われている。

多賀城遺跡は丘になっており、戦後ながい年月をかけて発掘調査が行われていて、今は美しく整えられた遺跡公園になっている。

その後陸奥国は、”街道をゆく 白河・会津の道“で述べている様に都人の辺境の憧れの地となり、特に宮城野のひろさ、その上に浮かぶ白い雲、野や原に咲き乱れる萩、溢れる花、ゆたかな川の流れ、気品のある青に染まる山並み、すべてが宮人の憧れとなり、様々な歌に詠まれた。例えば平安の歌人である能因法師の歌に以下の様なものがある。

都をば霞とともに立しかど秋風ぞふく白川の関

その後、多賀城の主人は”街道をゆく – 陸奥のみち“で述べている様に、源義家、奥州藤原氏となり、鎌倉幕府が滅びて南北朝時代となった時には、公家の北畠顕家(あきいえ)となっていた。

南北朝時代一の美少年と言われた北畠顕家は、才能もあり、当時混乱の極みにあった東北地方を平定するため、奥州の荒くれ者たちを見事に服従させ、さらに自ら兵を率いて混乱の鎮定に乗り出し、津軽地方にいた北条氏の残党を掃討し朝廷から従二位に叙任され、鎮守府将軍の役職に任じられている。

更に、関東で北条氏の残党を征伐した足利尊氏が後醍醐天皇からの命令に従わず関東に居座り、これを謀反と捉えた天皇は新田義貞を総大将に征討軍を派遣するが、返り討ちに遭わせ、その勢いに乗って京都に進軍し、京都を占領していたのに対して、顕家は疾風の如く奥州の軍を進めて、尊氏軍を京都から追い落としている

しかしながら、一度は敗れて九州に落ち延びた尊氏が捲土重来、京都を再び占領し、”街道をゆく – 河内のみち“でも述べている楠木正成を破り、更に新田義貞も敗走させたのち、再び北畠顕家と戦い、高師直(こうのもろなお)率いる軍勢に敗れ、わずか20才の若さで顕家は落命する。

その後戦国時代に入り、「独眼竜」伊達政宗の時代となる。伊達氏は鎌倉時代に源頼朝が奥州合戦に参加した時に従軍し、奥州の地に根を張っていった一族となる。南北朝時代には、前述の北畠顕家に属し、敗者の側となったが、朝廷・幕府への地道な工作で徐々に権力を取り戻し、伊達政宗の時代には東北地方のかなりの部分を支配する大大名となった。

しかしながら、日本の中央部では豊臣あるいは徳川の時代になりつつあり、かれらにより領土を減らされたり、”街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 坂の上の雲と南国の伊達家“に述べている様に長男を遠く離れた領地に飛ばされることとなっていった。

この伊達政宗の造った運河が「貞山堀」であり、岩沼の竹駒神社、大崎の八幡宮となる。

これらの神社を訪れる中で、司馬遼太郎は神社建築や寺院・仏像について考えている。古代には、神や仏の家はなく、ただ威霊が宿ったり降ったりする場所(山そのもの、あるいは泉のほとりや野の辻など)を清らかにするだけであった。その方が霊を感ずる上で、凄みがある。

「神にも、家が必要なのではないか」と考える様になったのは、仏教が伝来してからであり、当時の人々は、仏像たちが家に住んでいることにおどろいたのである。”日本のアートの歴史と仏像につにいて“にも述べている様に、釈迦が仏教を説いているころには、仏像などなく、サンスクリットという論理的なことばで展開される形而上的なものでしかなかった。釈迦の思想から考えても、仏像という形而下的な造形、あるいは可視的な対象は、ふさわしくない。

しかし、思想は時とともに動き、仏教が北インドに向かった紀元前三世紀の頃、むかしからいたペルシア系の人々の他に、アレグザンダー大王の東征の時の兵隊の子孫であるギリシア人が住んでいた。大王は、人種融合の政策をとり兵隊に現地で結婚させ、さらにギリシア文化を守らせた。インド北部のガンダーラもそのようなギリシア人駐屯地の一つであり、ギリシア人の卓越した彫刻能力もそこで根付き、神々を彫塑していた。

そこへ仏教が北上し「我々は、論理と詩的描写と想像力(つまりコトバで)神を見るのは苦手だ。その仏たちのお姿を説明してくれないか。私たちがそれを彫るから」とでもいって作られたものだと想像している。つまり、仏教はインド人によって考えられ、仏像はギリシア人が造ったといえる。

その仏像が、シルクロードをへて東に行き、やがて中国に入り、家が与えられた。ガンダーラでの仏像は主として岩に掘られたレリーフで、むれとして表現され、多分に装飾的であった。しかし、雨の少ない半乾燥地帯のひとびとにとって、自分たちのくらしに雨露の心配がすくないため、仏たちに家を与えるという考えに至らなかった。

これが中国に伝わる。「寺」という文字は仏教伝来以前から存在し、”役所”あるいは”役所の建物”という意味であった。役所といっても、小役所ではなく規模の大きい官庁建築物であり、当時(後漢の時代)の中国人たちは、儒教を信じ、儒教は官僚制でもあったため、西方からの神聖なものが憩う場所として、官庁建築物以外考えられなかったと想像している。

このように”家付き””仏像付き”となった仏教が朝鮮を経由して日本に伝わり、日本の神も家を持つようになったと司馬遼太郎は考察をしている。

仙台の後は、日本三景の一つである松島に向かう。日本三景は丹後の天橋立、”街道をゆく – 芸備の道“でも述べている安芸の宮島、そして松島で、松尾芭蕉もここを訪れ俳句を造っている。

旅は石巻に向かって終わる。宮城の海岸沿いは2011年に起きた東日本大地震の為に、司馬遼太郎の時代とは大きく風景が変わっている。海沿いの街並みはなくなり、新しい橋や堤防が作られている。

上記は建物は仮面ライダー、サイボーグ009などを生み出した有名な漫画家である石ノ森章太郎ミュージアムとなる。

次回は新潟県、潟のみちとなる。

コメント

  1. […] 街道をゆく- 仙台/石巻 […]

  2. […] 次回の旅は仙台・石巻となる。 […]

  3. […] 第9巻より。 前回の旅は仙台・石巻の旅であった。今回は新潟県、潟のみちとなる。耕作に適した土地に恵まれなかった人々が、それでも苦労して田畑を広げて行った歴史に興味を惹か […]

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