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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回は九州の肥前の島々(唐津・平戸・佐世保・長崎)をたどり、大航海時代のオランダや英国、ポルトガルとの南蛮貿易の跡を巡る旅について述べた。今回はニコライ堂、神田明神、神田神保町の古書店街を訪れ、森鴎外、夏目漱石らこの街に住み関わった人の足跡を訪ね歩く。旅のルートは共立女子大講堂の交差点付近からスタートする。この辺りは江戸時代から幕末にかけては護持院ケ原と呼ばれているところで、話は関東入国当時の徳川家康の城下町造成工事から、福沢諭吉の逸話や森鴎外の小説に飛ぶ。やがて旅は「世界でも有数のもの学びのまち」としての神田界隈に移る。神田お玉ヶ池跡で、北信一刀流の千葉道場に触れ、湯島聖堂での江戸の学問に触れる。次にニコライ堂、神田明神に立ち寄りながら、神保町の古書店街に足を踏み入れ、出版社や本屋の巨匠たちの話題へとなり旅は終わる。
神田界隈は、東京都千代田区神田にあるエリアで、歴史的な建物や書店、古書店、電気街などがある。神田にある歴史的な建物の一つである神田神社はJR御茶ノ水駅の裏に面し、学問の神様・菅原道真を祀っている江戸時代から続く歴史ある神社となる
神社の参道には、多くの屋台が並び、縁日のような雰囲気が漂っている。
神田神社といえば、神田明神下に住んでいたという設定の銭形平次も有名だろう。銭形平次は野村胡堂による江戸時代の捕物帳の主人公となる。ちなみに銭形平次捕物帳は野村胡堂の死後50年以上経っているため著作権も切れているため全88話を安価でkindleでも見ることができる。
また1966年から1984年までの20年近く(全888話でギネスブックでの世界記録にも認定されている)、大川橋蔵主演で放映されていたテレビドラマも、ある程度の年齢層には懐かしいものとなる。
また、モンキーパンチ原作で、宮崎駿の映画にも登場したルパン3世に登場し、ルパンを逮捕することに執念を燃やす銭形警部(銭形幸一)は、この銭形平次から数えて六代目(来孫)という設定になっていた。
神田神社から南西に降ると神保町となる。神保町は、古書店街としても有名で、日本全国から多くの書店や古書店が集まる場所となる。ここでは、古い書籍や雑誌、漫画、映画など、様々な種類の本を手に入れることができる。
また神田はカレーライスの激戦区でもあり、様々な種類のカレーが食べられると共に、毎年神田カレーグランプリが開催されている。
これらのカレーは”波乗りの島“で紹介した片岡義男の「カレーライス漂流記」にも述べられている。
街道をゆくでは、岩波茂雄により設立された岩波書店についての話題が述べられている。岩波書店は当初、神保町で古本屋として設立され、その後出版社となったもので、高い学術的水準に基づいた編集方針を取り、品質の高い文化・社会科学・自然科学・人文科学などの書籍を発行することで知られている出版社となる。
また岩波書店以外の書籍専門の出版社や印刷関連の店舗も多くあり、街道をゆくでは岩波書店の印刷も担っていた老舗の印刷所である精興社についても紹介しており、職人が原稿を見ながら活字を拾いそれを並べて印刷する活版印刷について述べている。
子供の頃は、家の近所にもこの活版印刷による印刷所があり、外から活字を並べている様子を見たりしていたものだが、現在ではデジタル化が進み、この活版印刷も見られなくなっている。
神田界隈は、自然地理的に見て、高低がある。明治大学やニコライ堂のある駿河台は丘であるのに対して、南端の一橋講堂や共立女子大あるいは学士会館の辺りは低所となる。
この低地の辺りは、江戸時代は沼であったものを埋め立てたものであったらしい。その辺りは江戸城から見て鬼門の方角でもあったことから、隆光という僧が徳川綱吉の命よって作ったものが護持院という寺であったらしい。この護持院は八代将軍吉宗の時代(享保二年(1717年))に起こった江戸大火で、付近の武家屋敷もろとも一切が燃えてしまい、もとの原になった。その大火の後、護持院は大塚に移され、その跡地は火除けのための空き地とされた。
この状態は幕末まで続き、ペリーが来航し日米和親条約を締結した安政元年(1854年)頃に、幕府の官立洋学校ともいうべき開成所が置かれることとなった。これは、それまでの日本には蘭学意外にヨーロッパ学がなく、条約締結後、国際関係の事務を扱うのに難渋したため、安政四年に各藩から著名な洋学者を集めて教授とし、蕃書調所が開設された。この蕃書調所をもって東京大学の祖とする考え方が東京大の資料の中でもとられている。
この機関は名前がよく変わり、洋書調所、そして開成所と改称されていった。場所も神田町から、神田一橋門外に移された。
ここで教えられていた外国語は、当初はオランダ語であったが、やがて英語、仏語、独語が教えられるようになった。開成所は本来、理科系の学校だったが、部立学はなく、化学、地理学、数学、それに画学が教えられた。画学は、当時芸術ではなく科学技術の分野に属していたとのこと。
ここはコンピューター製品やオーディオ機器など様々な電気製品の専門店がある日本一の電気街であり、アイドル・アニメ・マンガ・ゲーム・コスプレ衣装などの専門店が多数るオタク文化の中心地としても知られている。また、秋葉原には、多数のメイドカフェやコスプレカフェもあり、アニメやゲームなどのコスプレをした店員が接客を行うことで、一風変わった体験ができる場所としても知られている。
次回は北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅について述べる。
コメント
[…] 「街道をゆく」第38巻より。 前回はニコライ堂、神田明神、神田神保町の古書店街を訪れ、森鴎外、夏目漱石らこの街に住み関わった人の足跡を訪ね歩く旅について述べた。今回は北海 […]
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