街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第29巻 秋田散歩

前回横浜散歩について述べた。今回は秋田散歩について述べる。

秋田散歩と松雄芭蕉と菅江真澄と人形道祖神

今回の旅は象潟から始まる。司馬遼太郎の戦友が住職をしている蚶満寺から始まり、水田の中に多数の小島が点在する独特の景観を持つ象潟から秋田能代を経て鹿角へ向かう旅となる。明治の特異な学者である狩野良吉や東洋史学の祖、内藤湖南の話へと続く旅となる。

司馬遼太郎にとって東北は特別なもので、東北人に対して高度の市民感覚とか、精神の貴族性を感じるものらしい。秋田散歩においても、いきなり旅が始まるのではなく、東北出身の何人かの著名人の話から始まっている。まずは、陸羯南(くがかつなん。青森出身の明治の言論人。新聞「日本」の主催者で、正岡子規の死までの保護者として知られる)、そして原敬(はらたかし。岩手県出身。明治の言論人。のちに官界に入り、ついで藩閥を打倒すべく政党政治家になり、大正七年に首相になり、”平民宰相”とよばれた。大正十年に東京駅で一青年のために視察されて死亡)、高橋是清(たかはしこれきよ。宮城県出身。財政家。幕末、仙台藩の留学生として渡米し、奴隷に売られそうになったりして辛酸を舐めたが、帰国後予備校の教師などをし、のちに官界に入り、財政畑を進む、昭和二年に蔵相になり軍国拡張主義と戦ったため、ニニ六事件で暗殺される)、狩野亨吉(かのうこうきち。秋田出身。明治期の非専門的な大知識人。膨大な図書の蒐集家で、江戸中期の思想家である安藤昌益を発掘したことはよく知られている。明治三十九年に京都大学文化大学長となる)、内藤湖南(ないとうこなん。秋田県出身。明治の新聞論説筆者。江戸期の富永仲基の存在を発掘。湖南の学問的器量は、その後の京都大学の東洋研究に圧倒的な影響を与えた)。

最後の二人は、司馬遼太郎が新聞記者時代に縁が深かった京都大学での著名人であり、彼らの足跡を辿る為、秋田をめぐることとなる。

まず向かおうとしたのは庄内平野。都市の名前で言うと、鶴岡市酒田市になる。(上図の地図だと下方の星)旧藩でいうと庄内藩で、ここは、他の東北一般と、気風や文化を異にしているとのこと。

ここは、江戸期日本海航路(江戸期は太平洋航路はリスクが大きい為、日本海航路での交易が盛んであった)の要所であったため上方文化の浸透が高く、その上有力な譜代大名であったため江戸文化を精密に受け、さらに東北特有の封建身分制度も強いという、上方、江戸、東北の三つの潮目になるという珍しい場所という司馬遼太郎にとって特別な場所であったらしい。

秋田散歩では結局庄内への旅は諦め、秋田の象潟(きさかた)へ向かうこととし、大阪から飛行機で秋田市内から東南に15kmほど離れた場所にある秋田空港に向かい、秋田空港から車で1時間程度の象潟に向かう。

象潟は鳥海山のふもとに点在する103あまりの島々が田園地帯に浮かんでいるように見える独特の風景となる。この地形は、山頂から滑り落ちてきた巨大岩塊の集積で「流れ山」と呼ばれる小山の集まりが、東西1km南北2kmにわたり海の中に浮かぶ入り江を形成し、1804年、象潟大地震がおこり、約2m以上隆起して、干潟(陸地)になり現在の姿となったものとなる。象潟の風景は道の駅「ねむの丘」から一望できる。

象潟は松尾芭蕉奥の細道でも「象潟や雨に西施が合歓の花」や「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」などの句を読んでいる場所となる。奥の細道が出版されたのが元禄15年(1705年)であるので、地震で隆起する前の入江の状態を詠んだものが前述の句となる。

また象潟の島の中でも「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」を詠んだ能因法師の住居があった能因島について思いを述べ、さらに「象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟」と詠んだ西行法師についても触れられている。

象潟は古くから多くの歌人が訪れた場所でもある。

象潟の南東には鳥海山がある。

鳥海山は現在は煙こそ吹いていないが、活発な火山であり、平安時代には盛んに大噴火をおこして、噴火をするたびにその怒りを宥める為朝廷から階位が与えられ、天慶三年(939年)の爆発のときには正二位までのぼっている。ちなみに正二位は律令制の官位では左大臣、右大臣にあたり、室町・江戸時代の将軍が在職中についていた位階でもある。

先に述べた「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」は、中国の古代春秋時代の美女である西施について歌ったもので、呉と越が戦いを繰り返し、越王勾践が呉王の夫差に献じた越国一の美女が勾践で、呉王夫差は西施に溺れて、政治をおこたり、遂に国を失ったという故事を思い、象潟に咲く合歓(ねぶ)の花を見て前述の歌を詠ったものらしい。

芭蕉は、象潟で蚶満寺(かんまんじ)を訪れている。

ここは平安時代天台宗の座主である円仁が創建した古い寺院であり、芭蕉はここからの眺望を直訳すると「南は鳥海山が天をささえ、その山陰が入江に写っている。西は有耶無耶の関が道をさえぎり、東に堤が築かれていて、秋田城下に通ずる街道が遥かに続いている。海は北にある。そこから波が入ってくる場所を汐越という」と記述している。

現在は曹洞宗の寺となり、司馬遼太郎の戦友であった熊谷能忍(現在はその御子息だと思われる熊谷右忍さん)が住職をしている。

蚶満寺から秋田市内に戻り、秋田市内の地図を見ながら菅江真澄の墓をつみける。

菅江真澄は柳田國男により再発見された江戸時代の紀行家で、秋田/奥羽だけでなくアイヌや信濃など全国をめぐって紀行を残した。秋田の人形道祖神(村境や道端にある、民間信仰の神様)を詳しく記録した最初の人物としても近年注目されている。

菅江真澄の墓を訪れた後は、北に向かい金足にある旧奈良家住宅を訪れている。

ここは江戸時代中期に建てられた古民家で、先述の菅江真澄も逗留していたところらしい。建てられたのが1750年頃であるので、築270年くらいになる。構造は複合的で、建物の両端が前面に突き出す両中門造りで、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築となる。

次に一行は男鹿半島の中央にある寒風山に向かう。

その後八郎潟に向かい、カレーライスを食べる。

海岸に向かい、江戸時代に秋田の海岸線沿いに栗田定之丞により構築された独自の防砂林(栗田流植林法:緻密な観察によって、古ワラジやカヤを束ねて飛砂を防ぎ、その後方に柳やグミを植え、根付いたら松苗を植える)を見る。

彼はこの事業を藩や幕府からの命ではなく(提案はしたが却下された)、自らのプロジェクトとしてなしとげたらしい。

秋田の旅は鹿角市に向かい狩野良吉内藤湖南について語られて終わる。

次回飛騨紀行について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 秋田散歩と松雄芭蕉と菅江真澄 […]

  2. […] 佐渡金山の後は、佐渡島の南の方向に進み、新潟の直江津と航路が結ばれている小木港に向かう。小木港は江戸時代には佐渡金山の金銀輸送により繁栄し、また”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べた日本海航路の寄港地ともなったいた。 […]

  3. […] その後鎌倉幕府によって滅ぼされ、鎌倉幕府によって派遣された安東氏によって津軽半島北西部の十三湖の西岸に十三湊(とさみなと)が作られ、明確な中央の統治が始まる。この十三湊は”街道をゆく オホーツク街道 モヨロ遺跡の物語“で述べられている北方の民族や、”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“で述べられている日本海航路の拠点として、室町時代期では栄えていた。 […]

  4. […] 脈がそびえ立ち旅行者の通行を困難にさせたことから、旅行者の安全を守る”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べた道祖神の遺跡も多く点在する。 […]

  5. […] “街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べている松尾芭蕉は有名な奥の細道以外に”野ざらし紀行”、”鹿島紀行”、 “笈の小文” […]

  6. […] また円仁は”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“や、”街道をゆく 羽州街道-山形の道“にも述べているように、日本各地に天台宗ゆかりの寺院を […]

  7. […] 次回は秋田散歩について述べる。 […]

  8. […] そのような江戸時代前期(1680年頃)に、”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“等でも述べている俳諧師・松尾芭蕉が現れ、これまでの諧謔(かいぎゃく:面白い […]

  9. […] 与謝蕪村は、俳句を高い芸術性をもった文芸として完成させ”笈の小文と街道をゆく-明石海峡/淡路みち“や”街道をゆく 秋田散歩と松雄芭蕉と菅江真澄“に述べているような旅の情景を詠った松尾芭蕉、滑稽・風刺・慈愛の3つの要素を持ち自我を詠った小林一茶と並び、江戸時代の俳諧の三大巨匠として有名な俳人で、蕪村の俳句は、写実的な手法と豊かな色彩感覚で表現されており、情景が浮かび上がるような絵画のような句と評されるものとなる。 […]

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