街道をゆく – 横浜散歩と関内・横浜港の歴史

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第21巻 横浜散歩

前回芸備の道について述べた。今回は横浜散歩について述べる。

横浜散歩と関内・横浜港の歴史

今回の旅は神奈川県横浜市となる。横浜市は人口370万人の巨大な都市であり、街道をゆくの旅では幕末に横浜区域とされていた「関内」を旅の範囲と定める。

横浜港の原型は砂嘴(さし)だそうだ。砂嘴とは岬や半島の先端から海に向かって細長く突き出た砂礫の州のことを言い、一般にその先端部は内湾側に湾曲している。 砂嘴は河川から供給される砂礫が主に沿岸流によってよって運ばれ波の働きによって形成され、砂嘴が伸長して湾や入り江を殆ど閉塞すると砂州となる。

横浜港の開港は1859(安政六)年となる。これは前回”神戸散歩“で述べた神戸港の開港である1868年よりも10年以上前で、神戸が明治に入ってから開港したのに対して、幕末の動乱期に開港するものとなり、港の歴史や成り立ちが大きく異なってくる。

横浜が開港した頃は、横浜自体は前述の砂嘴の上でわずかな戸数の漁村があるだけの寂しい場所であった。砂嘴の場所は現在の地名で言うと山下橋から山下公園通りザ・ホテルヨコハマ県民ホール貿易センターシルクセンター神奈川県庁など横浜市の核となる場所となる。

横浜港の開港は、米国(代表ハリス)と幕府との間で結ばれた日米修好通商条約(1858年)によるもので、条約面では、開港場所は横浜ではなく神奈川(現在のJR東神奈川駅(横浜から東京方面に一駅)付近)であった。これは元々品川を開くよう主張されていたものを、江戸に近すぎるということで神奈川に交渉し、さらに神奈川宿には東海道が通っていたため、街道から外れた横浜の砂嘴まで、居住外国人の安全性を確保すると言う理由と共に、なし崩しに移していったという高度なテクニックを駆使して決まった場所であったらしい。

建前上は神奈川に開くことになっていたため、行政上の役所である神奈川奉行は神奈川宿に開いたため公館は神奈川にあり、税関や外国人の居住区は横浜の砂嘴にあるという不便な二分構造となっていた。また、居住地を神奈川にしろという各国使節のクレームに対しても、幕府は体制を繕うため神奈川宿のとなりの新宿村を居住区にするとし、(そんな気もないまま)全村百六十戸に対して立退を命ずるという芝居じみた挙にも出たが、これは新宿村の住民の反対もあり、進まぬままうやむやになっていった。

この神奈川宿から横浜までを結ぶ道は「横浜道」と呼ばれ、吉田川にかけられた吉田橋を経ることによって、横浜区域に入ることになり、この橋に設けられた関所を境にして、吉田橋から海側が「関内」と呼ばれて、一種独特の語感を持つ地域呼称となった。

横浜散歩はこの吉田橋跡から始まる。吉田橋跡は現在の関内駅のはずれにある。つまり関内駅は前述の関内の境界にあるものとなる。

この関内から横浜の旧居留地にかけての道が、この町で言う「馬車道」となる。この馬車道に対して十九世紀の大旅行家ですぐれた紀行文の書き手でイザベラバート(日本奥地紀行という本がある他、最近は「ふしぎの国のバード」というマンガにもなっている)

が記述した横浜の表現に「街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできている歩道には縁石、溝がついている、ガス灯と外国商店がずらりと並ぶ大通りを過ぎて、..」と当時の日本としては先進的な道路があったことが述べられている。

司馬遼太郎達は、馬車道を通り、旧幕府が造成した場所である海上保安本部を抜けて、桜木町駅から200mほどのとろにある灯台発祥の地に向かう。当時は、灯台を作るためのレンガすらなく、レンガ作りから始めた為、実際に出来上がるまでには長い時間を要し、完成したのは明治に入ってからだったとのこと。

横浜の新港埠頭、明治三十二年の着工で、途中財政難で工事の空白時期があり、大正三年になってやっと完成したものなる。場所は現在の赤煉瓦倉庫の辺で、司馬遼太郎達が訪れた当時は人気がない寂しい場所であったらしい。現在横浜の海側は様々なビルが立ち並び、おしゃれな観光スポットもたくさんできた賑やかな場所となっているが、生粋の浜っ子に聞くと子供の頃は寂しい場所であったらい。横浜は、戦後も全港が米軍に接収されていた時期も長く、現在の華やかさもほんの最近実現したものとなる。

横浜の山手の丘には外国人墓地がある。明治時代の統計で、日本全体に居住する外国人は二千五百人、そのうち英国人が千二十四人で、さらに横浜に住んでいた英国人が六百二十五人であるので、日本屈指の国際都市としても賑わっていたらしい。

その山の中から旧幕府の大砲が出てきた話も述べられている。これはペリーが開国通商を迫った際、軍議役として臨んだ佐久間象山が用意した 4 門の大砲の一つで今でも山下公園の近くに展示されている。

旅の最後に、司馬遼太郎は宿泊したホテルについて述べている。当時はザ・ホテル・ヨコハマと呼ばれ、現在のホテルモントレ横浜となる。古き良き時代の内装が残るクラッシックなホテルとして有名だが、神戸のホテルと同様に現在改装工事中であり、2024年に営業が再開される。

次回秋田散歩について述べる。

コメント

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