インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教

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サマリー

禅は大乗仏教の中の一つの実践方法であり、大乗仏教は、釈迦が説いた初期の仏教の教えに対して、より高次の境地を目指すもので、仏教の中でも特に深い哲学的・実践的背景を持つものとなる。

大乗仏教の中心的な教えは、菩薩道となる。菩薩道とは、一切衆生を救済しようとする慈悲の心を育み、自己を犠牲にしてその実践を続けることであり、これは、自己中心的な思考や行動を避け、他人に善意を持って接することや、他人を助けるために行動する「利他的な行為」を実践するものであるとも言える。この利他の考えの根本には、自己と他者との区別が曖昧になるという仏教の基本的な考え方があり、それらを実践するために、さまざまな経典を用いた教えや、観想的な瞑想や般若心経などの読誦などの修行を提供されている

この利他的な行為は、自己の利益を最大化するための理論であるゲーム理論の観点からも「プリズナーズディレンマというモデル」として利他行為を行うことが最適戦略であることが証明されており、また実験結果からも、利他的な行動は社会的信頼を生み出し、長期的な利益をもたらすことが確認されている。つまり、仏教的な思想や実践は社会を幸福にする(利益を最大化する)する方策(戦略)の一つとなると言える。

ここではこの大乗仏教についての概要について「NHK100de名著 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した」をベースに述べている。

前回はパラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力について述べた。今回はインターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教について述べる。

華厳経の象徴である奈良の大仏

「華厳経」は紀元三世紀に中央アジアで作られたとされている。華厳経と関係が深いものに奈良の大仏がある。

奈良の大仏の正式名称は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像」と言い(「盧舎那」はサンスクリット語「ヴァイローチャチ」の音写で「毘盧遮那(びるしゃな)」と記す場合もある)、「華厳経」の象徴として作られたものとなる。華厳経を根本宗教とする宗派が「華厳宗」で、その日本の総本山が東大寺、(「華厳経」のサンスクリット語は「ブッダアヴァタンサカ・スートラ」)で、漢語では「大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経(略して華厳経)」とされている。その意味は「無数のブッダの壮麗なる集まり」となる。

華厳経は60巻と80巻の二つの完全訳と、最終章の「入法界品(にゅうほっかいぼん)」のみを訳した40巻本の三っつが存在するが、どれもかなりのボリュームできちんと理解しながら読もうとするとかなりの労力が必要となる。

そもそも「華厳経」は一つの経典として存在していたのではなく、複数の独立した経を集めて作られたものとなる。サンスクリット語の原典として残っているのは「十地品」と「入法界品」のみで、この二つに様々な経がプラスされて一つの大きな経典になったものが「華厳経」となる。

日本に宗旨が伝わったのが八世紀半ば、新羅で学んだとされる審祥(しんじょう)が金鐘寺(こんしゅじ;東大寺の前身)の良弁(ろうべん)に招かれて「華厳経」の講義を行ったのがきっかけとされている。

華厳経は奈良時代に国家仏教として重視されたものの、その後はあまり注目されなかったため、一般には馴染みが薄いものとなるが、「華厳経」は「法華経」と双対をなす大乗経典であるとともに、日本人のメンタリティやものの見方に大きな影響を与えた経典として位置付けられている。

菩薩行を説く「十地品」と「入法界品」

まず「華厳経」のルーツとなる「十地品」と「入法界品」について述べる。

十地品では菩薩が究極の悟りへと向かって階段を登っていくプロセスを「歓喜地(かんぎじ)」から「法雲地」までの十段階(十地」に割れて書いている。凡夫が如来に出会って仏道修行をスタートと、やがて自利を中心とした修行から利他の修行へと移り、最後の法雲地で仏の教えを完全に体得し菩薩として最高の境地に達する-というのが、おおよその話の流れとなる。十地品については華厳経とは別に十地経という独立した経典が存在するので華厳経の十地品は既存の経典をそのまま取り込んだものと考えられる。

入法界品に関しては、善哉童子という少年が

文殊菩薩に促されて求道の旅に出た時の様子がストーリー仕立てで描かれている。

善哉童子は修行者、外道(異教徒)、医者、少女、遊女など53人の善知識(悟りへと導いてくれる先人たち)のもとを訪ねて、最終的には悟りの入り口へと到達するのだが、この話をよんでいくと老若男女どうんな職業の人であっても、すべての人の人生には学びや教えが含まれていることに気づかれる、日本人に馴染みの深い「東海道五十三次」の五十三という数字は、この物語に由来していると言う説もある。

このように華厳経では「これこそが里のに至る教えである」というエッセンスよりも、そこに示された「壮大で宇宙的な世界観」に特徴がある。経典の大部分が、菩薩修行の結果として最終的に到達する世界がいかにすばらしく、またきらびやかであるかについての記述に費やされている。

一は即ち多であり、多は即ち一である

これまでの般若経や法華経などの経典では、実際に会えないブッダと会うために時間軸に長目して、我々は過去にブッダとすでに出会っていると考え、浄土教では空間軸の転がりに注目し、この世界とは別の世界にブッダがいると考えた。

それらと異なり、「華厳経」の世界観は「この世界の外側に別の世界があり、そこにブッダがいる」と考えた点は浄土教と同じだが、浄土教は「我々は死んだ後にブッダに出会う」と説いたのに対して、「華厳経」では「死ななくても、この世で生きたままブッダに出会うことができる」と説いた。

ブッダというのは、それぞの世界の家主のような存在で、自分の世界を勝手に留守にするわけにはいかないので、華厳経では「別の世界にいるブッダが移動できないなら、ブッダがみずからの映像を私たちの世界に送ってくれれば良い」というアイデアを作り出した。

このようなバーチャルなブッダに対して、華厳経では「バーチャルはリアリティである」と捉えた。そのように捉えられる根拠として、華厳経では宇宙には様々なブッダが存在するがそれらは「毘盧遮那仏」という一人のブッダにすべて収束されると考えた。つまり宇宙にはたくさんブッダが存在しているように見えるけれども、もとを辿ればブッダは一つだと定義した。

宇宙に散らばる無数のブッダと毘盧遮那仏との関係は、インターネットにはネットワークの中心というものがなく、ネットワーク全体が一つの存在となっている。これが毘盧遮那仏で、各世界のブッダは毘盧遮那仏というネット本体の先にそれぞれ存在している。さらにそれぞれのブッダからまた別のブッダが放射状につながり、無限のブッダ世界が宇宙に広がっている。

一見、個々のブッダ世界は独立しているように見えるが、すべてのブッダは毘盧遮那仏とつながっているため、毘盧遮那仏は個として存在していながらもすべてのネットワークを覆い尽くす巨大な存在とみなすことができる。そう考えていくと「無限に存在するすべてのブッダは、毘盧遮那仏そのものである」とも言える。

よって華厳経では、この世界に現れたブッダがバーチャルな映像だったとしても、それは即ちリアルであると説いた。宇宙に存在する無限のブッダがお互いに繋がっていると仮定すると、この世界に現れた一人のブッダを供養しただけで無限のブッダを供養したことになる。

このような世界観は華厳宗では「一即多・多即一」(一はすなわち多であり、多はすなわち一である」という表現を使って、時空を超えた世界観を説明している。わかりやすく解説した部分としては「因陀羅網(いんだらもう)の譬喩(ひゆ)」が有名なものとなる。

因陀羅網は「インドラの網」という意味となる。須弥山の頂上に住む帝釈天(インドラ神)の宮殿に設置された美しい網飾りのことを指し、網の結び目の一つ一つには宝石の玉が取り付けられていて、それらの宝石の表面はほかの宝石を映し出している。他の宝石もさらに別の宝石を探し出すため、映り込みは無限に繰り返されることになる。こうした一つの宝石が無限の宝石ほ映し出すと同時に、無限の宝石が一つに収まっていることを「一即多・多即一」と華厳経は表現した。

この「一即多・多即一」は別の表現をするとフラクタルの概念のイメージとも重なる。フラクタルは、一つのものの中に無限の繰り返しが含まれていて、細かく見ていくとそこにはいくらでも掃除系の個が出てくるけれども、遠くから見れば一つの個に見える、という幾何学的世界観のこととなる。

ブッダの存在に例えるなら、一人のブッダの中に小さな世界があり、そこにはそれぞれ別のブッダがいて、さらにそれぞれのブッダの中には無限の世界が存在し、それらすべてが集まって一つの宇宙(毘盧遮那仏)を形成しているということになる。

このようなものはブッダの世界だけではなく、生物や宇宙の中に多く存在している。これらは改めて聞くと新鮮に感じられるが、日本人の文化の中には、微細なものや、小さなものの中に無限の宇宙を見出そうとする、茶道や華道、盆栽、水石など「一即多・多即一」の考え方から生まれたものがある。

宇宙そのものを具現化した毘盧遮那仏

すべてのブッダを統括する毘盧遮那仏は、宇宙の真理、宇宙そのものを意味する「宇宙仏」と定義されている。宇宙全体に遍満する超越的パワーとしてのブッダとなる。一方、我々が知っている人間の形をした釈迦というブッダは、その宇宙からメッセンジャーとしこの世界に送り込まれた3D映像の「人間仏」でありその意味では毘盧遮那仏と釈迦は同じ仏であると言っても良い。

東大寺の大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」であり、それを建立した政務天皇は、釈迦そのものではなく、宇宙全体を覆っている毘盧遮那仏こさが最も偉大な仏であると考えて、高さ50mに及ぶ世界最大の金銅仏坐像を造立し、その力に頼ろうとした。

毘盧遮那(ヴァイローチャナ)とは「光り輝くもの」という意味なので、太陽の象徴となる「華厳経」は宇宙をテーマとした経典なので、宇宙の中心にあって、すべてのものに平均にエネルギーを投げかけてくれる最も強いパワーを持った存在としての太陽を、毘盧遮那仏と重ねて考えるようになったのは至極当然のこととなる。

「鎮護国家」と結びついた経典

華厳宗の中では、菩薩の道を進んでいった先に到達する世界の素晴らしさ、きらびやかさについては何度も繰り返し語られるが、肝心の「悟り」に関してはほとんど解かれていない。

仏教は日本に六世紀に伝わり、飛鳥時代を経て奈良時代になると、奈良の大寺院には「南都六宗」(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)と呼ばれる学派仏教が誕生する。しかしこれらの仏教の目的は鎮護国家にあった。つまり「国を治めることに仏教を利用したい」という権力者の側に立つ宗教であった。

その中で、他のどの経典よりも中央集権的な思想に合っていたのが「華厳宗」で、「寝サットワーク本体としての毘盧遮那仏がいて、それがそれぞれの世界へメッセージを送っている」という部分を中央が地方を統括する中央集権国家体制の構造に準えて、全国に国分寺を建て、奈良の東大寺にその統括者である毘盧遮那仏を安置することで、日本全国でも「華厳経」の世界観を再現し、奈良がすべてを司る形とした。

つまり、奈良時代には「どうやったら悟りが開けるか」ということは求められていなかった為、悟りの記述が少ない華厳宗でも十分に役に立ったのが、平安後期から鎌倉時代になって、仏教の目的が人を救うことに向かい、そこで「悟り」の方法論が書かれていない華厳宗は廃れていったものとなる。

「華厳宗」と結びついて教義を確立した密教

ここで「華厳宗」の世界観とも似ている「密教」について述べる。密教で最重要仏とされている大日如来は、サンスクリット語で「マハーヴァイローチャナ」で、毘盧遮那仏と同じ仏となる。

インドで密教が誕生したのは四〜五世紀。当時のインドではヒンドゥー教の勢力が強まり、仏教は次第に衰退しはじめた。そんな中で生き残りを考えた大乗仏教が、ヒンドゥー教やバラモン教の呪術的な要素を取り入れて生まれたのが密教の起源と言われている。最初は教義も整理されておらず、主要経典ができて体系化されたのが七世紀となる。

日本に密教を紹介したキーマンは高野山を開いた空海だが、最初に密教を持ち帰ったのは天台宗の開祖・最澄となる。最澄は中国での滞在期間が短く、十分な知識を得られなかったので、後に弟子の円仁や円珍が唐に渡って密教を学び、天台宗も徐々に密教色を深めていくようになった。よって日本にはおける密教は真言密教(東密)だけでなく、天台密教(台密)もある。

真言宗では、密教は「顕教(けんぎょう)」と対比される教えであるとされている。顕教とは、釈迦が秘密にすることなくすべての衆生に向かって説いた教えのことで、一方の密教は、大日如来が秘密のものとして修行の進んだ人にだけ説いた教えのことを言う。一言で言うと「教えを一般に公開しない」というのが密教最大の特徴となる。

真言宗の根本経典は「大日経」と「金剛頂経」の二つで、唐の僧侶・恵果が二つの経典を統合して真言密教のベースを作り、それを受け継いで空海が開いたのが真言宗となる。密教は、初期・中期・後期と三つの段階を踏みながら発展していったが、この二つの経典は密教中期のものと考えられている。

初期の密教は、現世利益を成就するために呪文を唱えたり、呪術出来な儀式を行っていたが、中期になると華厳経の毘盧遮那仏などと合わさりながら、組織的な仏教教義を確立していく。空海は「大日如来は宇宙そのものであるとともに、微塵の一つ一つが大日如来である」と説いているので、密教は「華厳経」のフラクタルな世界観を引き継いでいることになる。また、密教の特徴の一つに曼荼羅を経に取り入れていることが挙げられるが、大日如来を中心に放射状に様々な仏がつながっていく「大日経」の胎蔵曼荼羅などをみると「華厳経」の世界観の影響を受けていることがわかる。

「自分が仏である」と気づくことが大切

密教での具体的なゴールは「即身成仏」となる。即身成仏と聞くとミイラを思い浮かべる人もいるがそちらは「即身仏」で、即身成仏とは異なる。真言宗での即身成仏とは「生田まま仏の境地に至る」とこになる。

真言宗ではそのためには「三密加持の行」が基本になると説いている。三密とは身密(印を手で結び)・口密(真言を唱え)・意密(宇宙の真理を心に思い描く)の三つの修行をさすが、それは「今ある私が仏である」ということに気づきね実感するための神秘的な特殊儀礼となる。すでにブッダのいる宇宙の中に生きているのだから、それに気づけば誰もがブッダになれる、というのが密教の悟りについての考えとなる。

密教では「我々がどうすればブッダになれるか」という問題は、すでに解決済みというスタンスで、「自分がすでにブッダであることを自覚する」ということが、唯一必須の作業となる。しかし、自分がブッダであることを自覚した後は、ブッダとして何らかの活動をしなければならない、ということで、護摩を焚いて加持祈祷をしたり、祭祀を執り行ったりと言った密教独特の行為が導入されてきた。したがって当然ながら、加持祈祷は現世利益を祈るもので合って、悟りのための修行ではない。

「悟りの問題は解決済み」としたことで、密教はどんどん現世利益を第一に考える実利的な宗教へと向かっていく。これは全国に伝わる三百篇以上の「弘法大師伝説」を見ても、空海が人々を集めて「どうすればブッダになれるか」を説いた話はどこにも見つからず、溜池が決壊した時に修復したとか、温泉を掘り当てたとか、土木工事にその力を発揮したなど現実的な「役に立つ」話ばかりであることからもわかる。これは、当時の人があの世のブッダよりもこの世の超人である空海を崇めることで、現世利益を求めるようになっていた事情も関係している。

現代に生きる人のほとんどは、生まれ変わった先のことより、今日そして明日をいかに生きるかのほうがはるかに大事になり、加持祈祷や、空海の行いを信じることで、様々な現世利益があると信じることで希望をもって今を生きられるのであれば、そこには宗教としての存在価値はある。

ヒンドゥー教に飲み込まれていったインド仏教

ここでインドにおける仏教の衰退について述べる。前述の密教の話で、四〜五世紀にインドではヒンドゥー教が勢力を持つようになり、仏教が勢いを失っていったことについて触れた。インドの仏教はその後も衰退の一途をたどり、やがて消滅してしまう。現在のインドでは80%がヒンドゥー教で、仏教徒が占める割合は1%未満となる。

ヒンドゥー教は、仏教が誕生する以前から広く信仰されていたバラモン教から聖典や、社会制度としてのカースト制度を受けつぎ、そこに土着の民間信仰が融合して生まれたものとなる。「輪廻や業」についての概念や、悟りを開いて輪廻を止めるという考え方は、ヒンドゥー教も仏教も共通しているが、悟りに至る方法が異なる。

ヒンドゥー教では、宇宙を貫く根本原理として「ブラウマン(梵)」というものがあり、我々個人には個人原理「アートマン(永遠不変の自我)」が存在していて、この二つがある一体化したときに悟りに至ると説いていた。このような教えは「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と呼ばれる。

元々の釈迦の仏教では、自我という錯覚の存在を自力で打ち消し、煩悩を断ち切ることが悟りに至る道だったが、ヒンドゥー教では、自我(アートマン)を永遠不変のものととらえた点が大きな違いとなる。いうならば仏教が無我を解いているのに対して、ヒンドゥー教は有我を認めているものとなる。

変容を許したことで仏教はアイデンティティを失った

仏教の教えは、様々なかたちに変容して選択肢の多い宗教となったことで、東アジアでは拡大していったが、インドでは逆に変容していったことで消滅につながっていった。これは釈迦の時代にはヒンドゥー教と全く別の教えだった仏教が、大乗仏教が成立して以降、次第にヒンドゥー教の教えに近づいていき、そのことでいつのまにか周りのヒンドゥー教に吸収されていった。

これは華厳経や密教が示した「この宇宙全体が一つのブッダ世界であり、そこに我々が生きている」と言う考え方は、ヒンドゥー教の宇宙の原理と自我が一致した「梵我一如」と同じであり、「華厳経」とほぼ同じ時代に作られた大乗「涅槃経」の中に出てくる「如来蔵思想」では「もともとわたしたちの内部にブッダは存在していて、私とブッダは一体である」と言う考え方は「梵我一如」と完全一致する。

このように「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗仏教はアイデンティティを失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んでいった。インド仏教衰退の理由は仏教そのものにあったということになる。つまり、仏教は変化を認めたことで多様性を持ち、選択肢の多い宗教となって外にどんどん広がっていった一方で、逆に中央部で衰退すると言うドーナッツ化現象を引き起こしてしまったと言うことが言える。

次回は大乗仏教と涅槃経と禅の教えについて述べる。

コメント

  1. […] 立石寺を開山したのは、天台宗の最澄の後を引き継いだ円仁だと言われている。天台宗は、平安時代に最澄が唐に行き、持ち帰ったもので、”仏教と経典と大乗仏教の宗派について“や”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べているような顕教の一大体系(釈迦の教え)を持ち、密教色はそれほど強くはなかったものが、当時の人々は祈祷を中心とした密教に興味を持ち、最澄の後に完全な密教体系を持ち帰った空海のために、苦境に追い込まれた。その弟子である円仁は唐に行き、天台宗の密教部門を確立し、人気を持ち返したとのエピソードが司馬遼太郎により語られている。 […]

  2. […] このような”不安”に対して、救いを提供する手段として仏教が求められ、”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“で述べているような阿弥陀如来による救いや、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べられている大日如来による救いの教えが広まっていった。 […]

  3. […] インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教 […]

  4. […] 空海の開いた真言宗は、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“や”空海と真言宗と印と曼荼羅と仏像“でも述べているように大日如来(だいにちにょらい)を本 […]

  5. […] 密教は”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“でも述べているように大乗仏教がインドのヒンドゥー教の影響を受けてできてきたもので、インド土着の様々な伝承がベー […]

  6. […] 真言宗は”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“でも述べているように大乗仏教がインドのヒンドゥー教の影響を受けてできた密教をベースとした宗教となる。 […]

  7. […] 覚鑁がいた平安末期は”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“で述べたように、これまでの自力の解脱という体系から離れた、解脱せずとも他力(阿弥陀如来)で救済されるという浄土信仰が生まれた時代で、覚鑁は元々空海が開いた高野山で学び、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べたような真言密教の教えを、浄土信仰の思想とマージし、真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明ではなく、救済をするときには阿弥陀如来に変わるという思想を打ち立てた。 […]

  8. […] 更に詳しい思想的な内容に関しては、浄土宗に関してはパラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力にて、真言宗に関してはインターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教にて述べている。そちらも参照のこと。 […]

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