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サマリー
禅は大乗仏教の中の一つの実践方法であり、大乗仏教は、釈迦が説いた初期の仏教の教えに対して、より高次の境地を目指すもので、仏教の中でも特に深い哲学的・実践的背景を持つものとなる。
大乗仏教の中心的な教えは、菩薩道となる。菩薩道とは、一切衆生を救済しようとする慈悲の心を育み、自己を犠牲にしてその実践を続けることであり、これは、自己中心的な思考や行動を避け、他人に善意を持って接することや、他人を助けるために行動する「利他的な行為」を実践するものであるとも言える。この利他の考えの根本には、自己と他者との区別が曖昧になるという仏教の基本的な考え方があり、それらを実践するために、さまざまな経典を用いた教えや、観想的な瞑想や般若心経などの読誦などの修行を提供されている。
この利他的な行為は、自己の利益を最大化するための理論であるゲーム理論の観点からも「プリズナーズディレンマというモデル」として利他行為を行うことが最適戦略であることが証明されており、また実験結果からも、利他的な行動は社会的信頼を生み出し、長期的な利益をもたらすことが確認されている。つまり、仏教的な思想や実践は社会を幸福にする(利益を最大化する)する方策(戦略)の一つとなると言える。
ここではこの大乗仏教についての概要について「NHK100de名著 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した」をベースに述べている。
前回は般若経のモデルチェンジとしての法華経について述べた。今回はパラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力について述べる。これのでの大乗仏教とは大きく異なる浄土教
今回は浄土教について述べる。浄土教は「阿弥陀仏がいる極楽浄土へと往生する」ことを説く教えで、阿弥陀仏のパワーを信じることが基本となるため「阿弥陀仏信仰」とも呼ばれている。
日本での浄土教系の宗派は、法然の説いた浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が有名だが、良忍の融通念仏宗や天台宗も、その協議の中に浄土信仰を取り入れている。有名な経典には「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つがあり、日本ではこれらをまとめて「浄土三部経」と読んでいる。「般若経」や「法華経」のような経典そのものの力というよりも、阿弥陀仏への信仰に力点をおいた教えとなっていところが、これまでのものとの違いとなっている。
「観無量寿経」はインドでの成立が疑問視されており、中国で創作されたであろうと言われているが、「無量寿経」と「阿弥陀経」に関しては「法華経」とほぼおなじ同じ頃の成立とされている。これらの経典が日本に伝わったのは飛鳥時代だが、その教えが定着するようになったのは「法華経」と同じく比叡山延暦寺が開かれて以降となる。
9世紀に中国で五会念仏を学び、帰国して天台浄土教の基本を作った円仁や、十世紀半ばに京の町を中心に遊行遍歴して教えを説いた空也
ほぼ同時期に「往生要集」を緒した源信らが日本の浄土教のルーツと言えるが、大衆に広めたキーマンは、法然と親鸞となる。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、法然の浄土宗と、その弟子・親鸞の浄土真宗が開かれたのを機に、浄土宗の教えは庶民を中心に爆発的な勢いで拡大していった。この流れは今も続いていて、現在の日本の仏教宗派では信者数が最も多いのが浄土真宗となる。
数多くの仏教宗派の中で、浄土教系の宗派が多くの民衆の心を掴むようになった訳は。平安末期の律令制国家が崩れて貴族の力が弱まり、仏教界も堕落して、寺院が僧兵を抱えて寺同士で争うようになり、さらに毎年のように各地で天災が起こり大凶作や飢饉がおきて、大量の死者が続出するようになった。こうして、生きるのが困難な社会になるにつれ、世の中には「末法思想」(釈迦が亡くなってしばらくすると、正しい仏の教えが衰退し、現世で悟りを開くのが不可能な時代が訪れるという仏教の予言・歴史観)が流行し始める。
そのような苦しい世の中で人々は「ここではない別の世界に逃げたい」と強く願うことになり、末法思想で謳っている「この世には救いはない。現世で悟るのは不可能で、苦しみから逃れるには、別の世界(浄土)にいくしかない」という考え方に救いを求めた。
これに対して浄土宗では、修行などは一切不要で、「南無阿弥陀仏」という言葉を称しさえすれば、誰もが極楽に往生して成仏できる」と説いている。つまり「般若経」や「法華経」が示した悟りの方法よりも、はるかに簡単かつスピーディにブッダになる方法を示したことになる。そのようなことが可能になるには、「自分で努力しなくても阿弥陀様が救いの手を差し伸べてくれる」という他力本願の思想が大きく関係している。貧困や飢餓に苦しんでいる人々は修行に励む気力もなければ、寺に寄進する財力もない。そんなどん底の状況にある人でも、救われる道があることを示したので、浄土宗は民衆の間に爆発的に広まった。
浄土教は大乗仏教と同じ括りにありながら、「お経をよめ、お経を唱えよ」という方向に向かった「般若経」や「法華経」とは全く別の方向に向かったものであると言える。
浄土教は時間軸ではなく空間軸の広がりに注目した
「般若経」や「法華経」と浄土宗の共通点は、基本的な悟りに至るプロセスとなる。「般若経」と「法華経」では「私たちはまず、どこかでブッダと出会い→これららも自分もブッダを目指して修行に励むことをそのブッダの前で誓い→菩薩(ブッダ候補生)になり→菩薩修行を続けて→やがて悟りを開きブッダになる」と考えた。この考え方は浄土教でも同じとなる。ただし、ブッダになる前の前段階である「菩薩になるための方法」が「般若経」や「法華経」とは大きく異なっている。
「釈迦の仏教」では、釈迦の入滅後はブッダ不在の時期が続き、56億七千万年後に弥勒が現れて次のブッダになり、その間は想像を絶する回数の生まれ変わりを繰り返さないと菩薩になれない。そのため般若経と法華経では遠い過去の時点ですでにブッダに会っていて菩薩に既になっているとしたが、浄土教では未来に如来に会って菩薩になるので、パラレルワールド「この世界とは別の世界が並行して存在している」を考え、「我々が生きているこの世界とは別の場所に、無限の多世界が存在している」として、その多世界にはブッダがいる世界といない世界の二つが存在すると仮定して、ブッダのいる世界を「仏国土」と呼んで、死んでもすぐに仏国土に生まれ変われれば、何十億年も待たずにすぐに菩薩修行をスタートできるとした。
つまりこれまでの教えにない空間軸の概念(パラレルワールド)を導入することで、より悟りを得る機会を増やした教えとしたものとなる。
浄土教ではこのパラレルワールドの考えに加えて、多くある仏国土のうち別のブッダがいる仏国土へも自由に行き来できる装置が完備された仏国土を理想の世界と捉え(様々なブッダを拝めば拝むほど、自分がブッダになっていくエネルギーが多く貯まる)、そのような世界は阿弥陀如来が住んでいる世界であり、阿弥陀如来への感謝の言葉である「南無阿弥陀仏」を唱えることで、そこに行くことができるとした。
なぜ阿弥陀如来がいる世界がそのような世界になるかというと、阿弥陀如来がブッダになる時の請願として、「もしブッダになるための修行を終えたとしても、その仏国土がどこよりも素晴らしいものになるまでは、自分はブッダにはならない」と誓ったためとなる。このどこよりも素晴らしい仏国土が、先述の「別のブッダがいる仏国土へ自由に行き来できる世界」であり、「生き物が地獄・餓鬼・畜生には埋まり変わらない世界」である全ての生き物が成仏できる世界であるとている。
仏道修行で世界を変えた阿弥陀仏
元々「釈迦の仏教」での「業」はそれを行った本人にしか結果は返ってこないものと定義されていたが、大乗仏教が生まれたときに新しく作られた「共業(ぐぎょう)」- 個人の業以外にも、みんなが共通に出し合う業が存在していて、それが世界の在り方に影響を及ぼしている – という考え方があり(わかりやすく言うと、みんなが悪いことばかりやっていると飢饉や災害が起こり、逆にみんなが善い行いを積むと平穏安泰な世界が訪れるという考え方)、それが末法の世界の解釈として受け入れられた。
浄土宗の考え方では、この世界を変え(素晴らしい世界を作り上げる)を、みんなの力の集結(共業)ではなく一人の業の力で行ったのが阿弥陀如来であるとしている。
更に、浄土教の経典である「無量寿経」「阿弥陀経」では、釈迦は「君たちは知らないようだが、実は阿弥陀様という偉いお方がおられる素晴らしい世界がある」と語り、阿弥陀のことを伝える伝令の役割を担うだけにして、信仰の対象にしていないという大きな変換がある。つまり浄土教では釈迦よりも、阿弥陀の方がはるかにレベルの高いブッダとなっているのである。このように大乗仏教では「釈迦だけが唯一のブッダである」という考え方は薄れていき、阿弥陀仏や大日・薬師・阿閦など、様々なブッダが登場する。これはパラレルワールドの概念が作られて、「世界は無数に存在する」という話になったことで、タガが外れてブッダの数が増殖していった為である。
「南無阿弥陀仏」をと変えるだけで善い
阿弥陀如来のいる極楽浄土に行くために何をすれば善いのか。浄土教では「浄土にいくための修行は一切必要ない」としている。浄土教でも初期の頃は、これまでの仏教の流れを受けて、修行を積まねば極楽に行くことはできないと言っていたのが、次第に請願の力が絶対視されるようになり、修行の必要性が否定されていった。「南無阿弥陀仏」の「南無」は「お任せします」の意味であり、「南無阿弥陀仏」はすなわち、「阿弥陀仏におすがりいたします」ということで、それをすれば誰でも一足飛びに極楽浄土にいけるとしている。つまり「自分で極楽浄土にいくのではなく、阿弥陀如来が自分達を浄土に連れていってくれる」という「他力本願」が浄土教と他の宗教との決定的な違いとなる。
ここで法然が浄土宗を開いたときは、「極楽浄土新国は往生したいと自ら願い、念仏を唱えることが大切」でそこには自分で何らかの行動を起こす「自力」があるとしたのに対して、親鸞の浄土真宗になると他力の度合いが強まっていき「わざわざ願わずとも、阿弥陀のほうから手を差し伸べて浄土に呼び寄せてくれるのだから、我々は何もする必要がない」と考えるようになってくる。すると「南無阿弥陀仏」ととう念仏は願うためのものから感謝のためのものになってくる。
浄土教の元となった「阿閦仏国経」
浄土教は「般若経」や「法華経」とは全く別の種類の教えであり、そこに変化していくためのベースとなる経典として「阿閦仏国教」があるこの経典は浄土教の成立以前に書かれた歩い大乗仏教典だが「この世界とは別の世界が存在していて、そこには別の素晴らしいブッダがいる」と書かれてあり、そのような素晴らしいブッダがいる世界に行くには「六波羅蜜などの修行を積むことで妙喜世界(阿弥陀如来の世界のようなもの)に生まれ変わることができる」と書かれている。ここで六原持つとは、布施や持戒、尼辱、精進などの大乗仏教における一般的な修行となることから、「阿閦仏国教」ではパラレルワールドの存在を認めるが、そこに行くためには自力で行かねばならないとなっている。
これに「他力本願」という概念を組み合わせたものが「無量寿経」であり浄土教となる。
目的が「悟り」から「救われること」に変わった
極楽浄土に他力で行けたとして、これまでの仏教ではそこから仏道修行が始まっていたが、浄土教では次第に「ブッダになること」ではなく「極楽浄土に往生すること」を最終目的と考えるようになった。この元々「無量寿経」にも法然や親鸞の教えにもなかった「極楽浄土に往生すること」という目的は、極楽へ行って、この世の苦しみから逃れたいという信者が増えていくにつれ、大衆に迎合するかたちで教えが変化していったものと考えられている。
ここでいう「救われること」とは悟りを開いて涅槃に至るのではなく、楽しくてきらびやかで不自由のない生活を永遠に続けられるようになることをいう。「無量寿経」には「極楽浄土とは、苦しみも悲しみもない世界であり、全ての人々は宝石に飾られた宮殿に住み、究極の楽園生活を送る」とあり、人々はその部分ばかりに注目するようになり、いつしか極楽に辿り着くことが最終目的であると考えるよ絵になった。
また、浄土教では本来極楽に往生したとしても、また別の世界に生まれ変わる(そのような輪廻を断ち切るために修行してブッダにならなければならない)と考えていたが、最終ゴールが悟ってブッダになることではなく、極楽でいつまでも快適な暮らしを続けるということになって、当初の構造も次第に無視されるようになり、極楽に往生すればすこに永遠に居続けられるという話に変わっていった。
この「極楽浄土」はキリスト教での「天国」に近いものに変容していったとも言える。
この教えはこれまでと大きく異なるが、貧困に喘いでいる人たちは生きていくことだけで精一杯で、人のために何かをしようという(善行を積む)なとど考える余裕もないし、修行する時間もない、そんな人たちの救いとなるので浄土教で、それを拠り所として生まれた宗教が浄土宗や浄土真宗であれば、いくらそれが本来の仏教の教えとは異なっていても、そこには大きな意味があると考えることができる。
宗教に正しいも間違っていもない
このような形の救いは、使い方を間違えると危険思想にも繋がる。極楽浄土の存在を本気で信じれ馬、死ぬのが怖くなくなり、極楽に行けると思えば命も惜しくなくなるので、どんな強い相手にも立ち向かっていけるようになり、日本の古代にも浄土教系の信徒である民衆が「今の生活が苦しいのは国を動かしている権力者が悪い」と思って一斉に立ち上がると、誰にも抑えられなくなる(戦国時代に勃発した一向一揆)。
浄土教は「他力本願」を基本としているため、決まり事のないゆるい宗教のように思われるが、一歩間違えると集団での暴力に向かう危険性を秘めているものとなる。これはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教やヒンドゥー教でも同じように、我が身のこととして教えを突き詰めていくと、多かれ少なかれ、捨て身の行為をよしとする危険性を孕んでくる。
しかし、別の観点で見ると、一つの教えを無条件に信じて狂信的にならなければ、本当に救われることにはつながらない。つまり、宗教に正しいも間違っているもなく、大事なのは「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」のこの一点のみとなる。もちろん、現代的価値観から言えば、他者に危害を加える行為は、たとえそれが熱心な信仰から出たことであっても許されないことであるため、そのような制約は加えられるべきである。
次回はインターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教について述べる。
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