街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第17巻 島原・天草の諸道

前回飛騨紀行について述べた。今回は島原天草の諸道について述べる。

島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教

今回の旅は、九州の北西部、長崎県島原半島と、熊本県天草諸島となる。旅のルートとしては空路長崎まで飛び、長崎空港から島原半島を島原湾に沿って、島原城原城を通って口之津を通り、江戸時代島原の乱の話となる。その後フェリーに法、熊本県の天草下島に渡り、本戸(本渡)城跡にある殉教公園の丘に登り、島原の乱と同時に起きた天草四郎の乱について述べられている。

今回の旅は、海の上に浮かぶ長崎空港から始まる。

長崎空港から諫早(いさはや)を経て、その町外れのおこしやで一服する。諫早の名物は米のおこしだそうで、休憩所でコーヒーを飲んでいても一皿サービスで出てくるらしい。大阪のおこしは栗おこしだそうだが、諫早のそれは伝統的な米のおこしとなる。

菓子としてのおこしの歴史はふるく、日本書紀の神武記に出ていることから2000年以上前にすでに存在していたらしい。おこしを名物とする諫早は、島原半島にいたる途中にある、枝のように細い地形で、西は大村湾、東は有明湾に挟まれた狭隘地となるが、河川にもめぐまれ、有明海に向かって三角州を形成し、ふるくから稲作の好適地であるらしい。ここは諫早氏という豪族の根拠地であり、江戸自体の大名になるところを、自ら格を下げて、佐賀鍋島氏の参加に入り家老となったらしい。大名になれば参勤交代などの費用もかかるが、家老であればそれもなく、名を捨てて実をとったものとも言える。

旅の目的地である島原は、江戸時代初期(1630年代)に日本史上最大規模の一揆である「島原の乱」が起こった場所で、隣接する熊本の天草地方で同時に起こったキリスト教徒を中心とした反乱である天草の乱と併せて。島原・天草の乱と呼ばれている。

島原は松倉重政/勝家という大名が治めていたいた領地であるが、松倉重政は元々近畿地方で三千石程度の領地を持つ小豪族であったのが、秀吉の死後の関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康に加担し、戦の終盤の敵が崩れ去った時に追い縋って首級を打ち取り、家康に猛アピールし、大和での1万石の領地を勝ち取り、さらに島原の4万石の領地を勝ち取っていった上昇志向の強い人物であったらしい。

島原自体は先述の諫早と異なり、海沿いの平地が少なく、河川が小規模で水田が少ない領地であり、当時の大名は、領地の石高を過少申告して少しでも幕府に税を納めるものを少なくしようとしていたのに反して、自らが城持ち大名となるために(城持ち大名の最小資格が四万石であったらしい)元々少ない取れ高を実質以上に過大申告し、更に通常の大名ならその費用負担に尻込みする幕府のインフラ工事負担も、自ら願い出て(しかも自分の領地の経済力である4万石よりはるかに大きい10万石の負担)、自らをアピールするというとんでもなく自己中心/上昇志向の大名だったらしい。(似たような人間は現在の大企業の中にもいそうだが…)

このように収入もないのに過大申告して税を払い、多大な「お手伝い賦役」をする経済的な根拠もなく無い袖を振り続け、その負担は全て領民におしつけて、牛馬が通っても税を取り、畳を敷けば税を取り、子供が生まれても人頭税を、死者を葬る穴を掘れば穴勢を、さらに茄子1本の実の数まで焼く人が数えて、何個かを税として持っていくという壮絶な重税を行ったらしい。さらに税を納められない領民を罰するために、人智をもって考える限りの残忍な方法を考案して人を殺すこともやっていたらしい。

そのため住民は、生存権をまもるという段階は通り過ぎて、もはや早くこの世をさるために結束するという絶望的なところまで追い込まれていった先の島原の乱の住民蜂起だったらしい。

この頃世界、特にヨーロッパにおいては、プロテスタントが市民社会の勃興と重なり盛んになり、従来のカトリックが危機感を持って結成されたのがイエズス会で、その創始者は、軍人あがりのイグナティウス・デ・ロヨラとなる。創始者が軍人あがりであったため、イエズス会は、軍隊規律と清貧と貞潔をかかげ、非常の勇気を持って布教活動を開始した。その中でロヨラに口説かれ、同志としたのが日本人には馴染みの深いフランシスコ・ザヴィエルとなる。

更にヨーロッパにおいては、スペインポルトガルが冒険的な海外防諜に乗り出していた時期でもあり、制服と貿易事業のために現地をカトリック化する必要があると考えた当時のポルトガル国王が、ローマ法王に乞い、最初はフランシスコ会の会士が派遣されたがうまくいかず、もっとも先頭的なイエズス会が動くこととなり、その責任者としてザビエルが選ばれ1549年に日本に到着した。

ザビエルが日本にいたのは二年あまりだったが、ザビエルの持つ神に対する絶対の服従と規律、敬虔さは多くの人の心を打ち「日本の僧侶とは全く違う」と感じてその後の切支丹隆盛に対する決定的な出発となったとある。

また”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“でも述べたが、当時の日本の仏教は、インドで起こった釈迦の仏教から大きく変化して、個人の解脱から全ての人の救済というキリスト教の教えにある意味近い形に変化していたため、受け入れられる素養があったともいえる。

また”キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム“等でも述べているがキリスト教には、強い倫理があり、それを言葉で民衆に直に語っているため、思弁的な言葉て構成されほとんど民衆に語りかけなかった仏教よりも、民衆にとってインパクトがあり、中世の日本社会に強かった他力という考え方に対して、自律を強く持っていくというキリスト教のスタンスもこれまでにない強い感激を与えたものと想像される。

さらに忠誠心という甘美な精神は、中世の人々に、現役として湛えられていたが、天国の支配者であるキリストに使えるという形に強烈な昇華を見出したという点でも当時の日本で広まった原因と司馬遼太郎は述べている。

キリスト教の話が進んだ後で、司馬遼太郎は島原の城跡に向かう。九州は中世から戦国時代には二つの勢力、肥前佐賀を根拠地とし、九州北部を支配する龍造寺氏と、薩摩を根拠地として九州南部を支配する島津氏がいた。島原には有馬氏がいて、当初は龍造寺に与していたものが、途中から島津の庇護を受けることになり、これに怒った龍造寺が島原に兵を向けて、島原の沖田古戦場跡となる。

ここで数的には優勢であった(数万対1万)龍造寺側が油断して、大将である龍造寺隆信が島津に首を取られて敗れたという場所が沖田畷(おきたなわて)となる。

沖田畷より海の方向に抜けて島原城に向かう。

島原城の背後には今も活発に火山活動が行われ、1991年には大規模火砕流が生じた雲仙岳がある。

また雲仙岳の麓には、有名な雲仙温泉もある。

島原の町の中には鉄砲町と呼ばれる石垣を持った武家屋敷群がある。

島原では、現在は廃業してなくなっている国光屋という宿に泊まっていたようだ。

ここは古くから続く老舗で、西鉄ライオンズからクラウンライター・ライオンズまでのキャンプ地の常宿であったらしい。

島原を出た後は、島原の乱と同時におきた天草四郎の乱の舞台である

原城跡に向かう

この後、幕末になるので平和な江戸の時代が300年続いた為、島原・天草の乱は武士が実体に戦いをした中世最後の戦となる。

旅の終わりは、天草に渡り、キリスト教が解禁されて後、最も早く造られた教会(明治25年にフランス人ガルニエル神父により造られる)である大江天主堂を訪ねたところで終わる。

次回淡路島から徳島までの阿波紀行について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教 […]

  2. […] “街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“でも述べているフランシスコ・ザビエルは、バスク人であり、スペインのナバラ王国の一城主の子でもあり、カトリッ […]

  3. […] 金は、古代より取れることは理解されていたが、貨幣としての価値は認織されておらず、中尊寺金色堂や金閣寺のように装飾の意図で使われることが多かった。これに対して、“街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“や”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べている南蛮文化(ポルトガルやスペイン人)の到来により、金の貨幣価値が大きくクローズアップされ、金山が掘られるようになっていった。 […]

  4. […] 次回は島原・天草の諸道について述べる。 […]

  5. […] ここで1630年代後半に”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べた島原・天草の乱が起き、国内のキリスト教徒は危険な反乱分子とみなされるようになる。 […]

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