街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第8巻種子島と屋久島の道

前回の旅は、熊野古道古座街道和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町週参見から古座川沿いの雫の滝、真砂、一枚岩、明神の川集宿、潜水橋、河内神社を通り古座に抜ける旅について述べた。今回の旅は鹿児島県の種子島屋久島奄美諸島となる。

種子島(たねがしま)は、日本の南西部、鹿児島県に属する島となる。現在の種子島の名前を最もよく聞くものは、島の東南端の海岸線に面したJAXA(宇宙航空研究開発機構)が運営する宇宙開発センターであろう。

センターの中には、「大型ロケット発射場」、「衛星組立棟」、「衛星フェアリング組立棟」などの設備があり、これらの設備で、人工衛星の最終チェックからロケットへの搭載、ロケットの組み立て・整備・点検・打ち上げ、打ち上げ後のロケットの追跡まで一連の作業を行っており、日本の宇宙開発において人工衛星打ち上げの中心的な役割を果たしている。

また、種子島は太平洋と東シナ海に面したサーフスポットとしても有名で、一年中何かしらの波を楽しめる場所となっている。

その種子島日本書紀の天武紀にも、多禰嶋人(たねのしまびと)として登場する。

是の月に、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗たまふ。

種子島の島主が使いをよこしたところ、大和政権はこれを大切にあつかい、天皇自らが宴会を主宰してかれらをもてなしたらしい。さらに天武天皇は二人の高官を種子島に派遣している。その後の種子島の島主は鎌倉時代から起こった種子島家となり、戦国時代種子島から見ると北の対岸(43kmほど離れた)にあたる鹿児島(薩摩)の島津家に合併吸収されたおりも、廃絶されることなく島主としての身分を保証され、島津家の一門として明治まで続いたらしい。

司馬遼太郎によると、種子島はこの薩摩の影響を受けるよりも、船で直接上方(京都/大阪方面)に向かい、文化圏としても上方のそれに大きく影響を受けていたとのこと。これは例えば、食物が美味であるという表現と、砂糖の甘みが味覚表現として区別されておらず、単に「ウマイ」とされているのに対して、種子島の場合は美味はウマイであり、甘味はアマイであり、薄味はミズクサイという、上方圏と同じ表現になっていることから類推されている。

この上方圏との繋がりは、種子島と聞いて、歴史的に有名な鉄砲伝来にも影響を及ぼす。

1543年(天文12年)に1隻の中国船が種子島に漂着、その中に乗っていたポルトガル人が鉄砲を持っていた。当時の当主は種子島時尭(たねがしまときたか)で、その屋敷に”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“でも述べた紀州の根来寺の一員である津田監物(つだけんもつ)が長逗留しており、津田家は、紀州川筋の大土豪で、根来寺の僧兵の大将あるいは一山の政治経済の切り盛り役のようなことをしていた。

この津田監物が、種子島時尭からポルトガル製の鉄砲を一挺もらったことが鉄砲の伝搬になり、戦国の様相を、割拠から統一に向かわせる力を作るに至ったのである。

種子島へのアクセスは、航空機で東京から大阪からの直行便もあるが、メインは鹿児島からの船や航空機となる。

種子島の18km南西には屋久島がある。屋久杉をはじめとする巨木の原生林や、多様な動植物など、豊かな自然が魅力の屋久島は、島の約20%にあたる10,747ヘクタールが世界自然遺産に登録されている自然の宝庫となる。

    屋久島も古くから歴史に登場している島となる。最も古いものはの正史「随書」で、大業3年(607)第二代煬帝は、「異国の風俗を調べるため兵を東海に派遣したが、言葉が通じないので、地元の人を一名連れて帰り、翌年再び派遣したが、従わないので布甲などをとって帰った。その折り、倭国の使者が来朝していて、これを見て、『それは夷邪久(いやく)国の人が使っているものだ』と言った。」と記録されている。この倭国の使者とは、遣隋使小野妹子であろうと言われており、この「夷邪久(いやく)」国が屋久島であるとされている。

    また、天平勝宝5年(753)12月12日に”街道をゆく 沖縄・先島への道“でも述べた鑑真屋久島に来日したり、平家滅亡後、平家落人(おちうど)にまつわる伝承・地名が今も残っていたりしている。中世には種子島家種子島ともに収め、最終的には薩摩藩の一部となっていった。

    屋久島へのアクセスも、鹿児島から船か飛行機でのものがメインとなる。

    屋久島種子島から更に南西に進むと徳之島奄美大島などの奄美諸島となる。

    奄美大島は美しい自然環境が広がっており、亜熱帯気候の影響を受けています。豊かな森林や美しい海岸、珊瑚礁、清流などがあり、自然愛好家やダイバーにとって魅力的な場所で、奄美大島周辺の海域は、海洋生物の生息地としても知られている。

    また島にはサトウキビ畑ののどかな風景が広がっている。

    奄美諸島へのアクセスも、鹿児島から船か飛行機でのものがメインとなる。司馬遼太郎の時代から1990年頃までは、南西航空という航空会社であったが

    現在ではJAL系列の日本トランスオーシャン航空株式会社(JTA)となっている。

    奄美諸島をさらに南西に進むと”街道をゆく 沖縄・先島への道“で述べた沖縄、先島となる。

    次回は、甲賀伊賀信楽のみちとなる。

    コメント

    1. […]  彼は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。ザビエルが日本を訪れたのは”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“で述べた種子島への鉄砲伝来から6年後となる。 […]

    2. […] 寺のように装飾の意図で使われることが多かった。これに対して、“街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“や”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教&#82 […]

    3. […] 次回の旅は鹿児島県の種子島と屋久島、奄美諸島となる。 […]

    4. […] 日本では、”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“でも述べているように、16世紀にヨーロッパより伝来された鉄砲により武器として利用され始め、さらに花火が鑑賞される […]

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